携帯電話によるコミュニケーションを、ハイデガーやハーバマスの
コミュニケーション理論の観点から批判した著作です。暴力的にまとめてしまうと、
ケータイでのやりとりというのは商業的戦略に取りこまれてしまった
産物である、だからハーバマスが理想とするコミュニケーション的行為
とはかけはなれており、そのことへの注意が必要だ、ということになります。
ハイデガーやハーバマスを結びつけて論じるというのはあまりみたこと
がなく、興味深く読ませていただきました。が、最後まで読んだ後に付いている
大澤真幸の解説が凄い。解説というよりマイアソンの意見に真っ向から
対立するようなことを述べているのですが、正直そちらのほうが説得
力があるように感じました。大澤真幸によれば、ケータイにおいてはコミュニケーション
が純粋な形で現れることが可能であり、一方の手元から相手の手元へと
その距離を完全に消失させつつ交信が行われます。そこではその中身よりも、
コミュニケーションするという形式、つまりお互いに伝え合っていることが
重要になってくるのであり(恋人や友人からメールがすぐに返信されないことに
苛立つなど)、その視点からいえばむしろケータイのコミュニケーションは極めて
純粋なコミュニケーションなのではないかというものです。
そのコミュニケーションのあまりの純粋さゆえに、やはりハーバマス・ハイデガー
双方の思想からケータイのコミュニケーションは批判されるであろう、と大澤
は述べます。自分の実感からいうと、むしろ大澤の指摘のほうが重要なのではないか
と思いましたが、マイアソン・大澤の両方の視点それぞれ得るものがあるかと思います。
なお脚注で、『コミュニケーション的行為の理論』や『存在と時間』をわざわざ
(たぶんそのままの)英訳のページ表記をしているのですが、邦訳ページ
に当てればいいのにと思います。そのぐらいの手間は省かないでほしかったです。