なんだか、事態は相当深刻なようですね・・・
読み終わった後も、私も矢幡氏と同じく、何やら重い気持ちになってきました。
まさに、いまや日本の多数派と化してきた、いわゆる、とにかく、明るく楽しいのがいいと思っていて、真面目・深刻な話は嫌がり、みんなととにかく何でも一緒にしたがり、
自分があまりなく、人からの評価・注目だけが拠り所で、注目・脚光を浴びる事に最大限の価値を見出す「ヒストリニクス」。そしてまた、必然的にそんな彼らが尊敬するのも、より人々から注目を浴びる、何やらやたらとノリがいい人達だという・・・ 矢幡氏の指摘している通り、ここ数年間、この日本
社会全体が異様なハイテンションで、覆われているような気がします。良きにつけ、悪しきにつけ・・・
私なんかは、もうついていけないと思う事もしばしば。
何か、しょっちゅう、誰かに喝采を送っているか、バッシングをしているかのような。しかも、その対象は、しばしば同一人物に対して行なわれているような。好き嫌いの振幅が、すごく激しくて、中間がないような感じなんですよね。
もちろん、矢幡氏も挙げている人物のように、多少の例外もありますが。この傾向は、やはり、平成に入ってから顕著になってきたような気がします。本書の中で「絶滅危惧種」(まさに絶滅危惧種とは、言い得て妙!)に例えられているヒストリ二クス達の中で感じる疎外感は、
まぎれもなく、絶滅危惧種の一人である私には、本当によくわかります。本当に、なんで私が学校などの集団の中で居心地の悪さを味わい続けてきたのか、よくわかりました。私の周りも、ヒストリニクスの人達ばかりでした。やたらと何でも騒ぎたがる、別に友達でもないのに、やたらと同調を強いる、少し真面目な話をしようとしただけで、「暗い」とか言ってすぐ敬遠する。ヒストリニクスの人達には、自分達と異なる絶滅危惧種の人達が、どれほど大勢のヒストリクスの中で、疎外感を感じているか、想像してみて欲しいです。でも、人って自分がその多数に属していると、そういう事になかなか気がつかないものなのでしょうが。とりあえず、自分達と違うからとか、ノリが悪いからとかだけで、異なるタイプの絶滅危惧種の人達を、とにかく排斥しようとしないでください。共存という事を考えてみてください。しかし、このヒストリニクスも、一個人なら別に悪い人ではないんでしょうが、ちょっと政治家にはなって欲しくないような気がします。不向きに思われるので。だって、深刻な話が苦手で自分が希薄で実は中身に乏しくて、他人からの注目と人気を集める事だけが、何より大事なんて人が
政治家になりでもしたら、定見も持たないで、国民の人気取り政策にばかり走りそうじゃないですか。
時には憎まれ役になる覚悟も信念もなさそうだし。不安です。でも、現在、政治家にも、この種のタイプが多くなってきているような気がして、かなり心配です。今回の内容は、紹介している実例も、有名人から一般人まで扱う豊富なものになっいて、とてもいいと思います。でも、このようなヒストリニクスの人達の方が優勢になってきたのは、何年くらいからなのかという事に関して、もう少し深く検証して欲しかったです。私の感覚では、ネアカ・ネクラという言葉が出てきた頃からかな?と感じているのですが。それから、著者の「この状況が変わるとしたら、おそらく何か悲劇的な事が起きてからではないか?」という危惧は、私もひしひしと感じており、筆致は軽く楽しい感じなのに、読み進めるほどに暗い気持ちになっていってしまいました。矢幡氏は、私がもう何年間もこの社会に対して感じていた
非常な違和感を、見事に解明してくださりました。矢幡氏の視点には、非常な鋭さを感じるので、ぜひ、この「ヒストリニクス」と日本社会についての考察と検証を、さらに進めていって欲しいと思います。それに、私は日本と同じくヒストリニクス社会だと指摘されているアメリカと日本では、同じヒストリニクスでも、どこか違いがあるような気がするので、その点に関しても、検証して欲しいような気がします。中にはヒストリニクスの人達も、世の中にはいてもいいとは思うんですが、何でもバランスというか、あまりこういう人々ばかりが多数になり過ぎると、まずいような気がします。
ヒストリニクスの人達ばかりが増加するのを防ぐのには、ありきたりなのかもしれませんが、
個人個人が自己を確立できるようにしていく、という事しか、ないんでしょうか。