当日の放送でも述べられていた通り、ウェルザー=メストはオーストリア出身の指揮者である。
私は実は、スイスのチューリッヒ歌劇場で活躍する前から、「レコード芸術」でその名前を
聞いたことがあった。その雑誌では、オーストリア期待の指揮者として名前が挙がっていたが、
ベームやカラヤンと比べ小粒という印象を受けるといった記載がされていた。
しかし演奏者に小粒かどうかが本当にふさわしい言葉だろうか(それ以前に、そう記載する
のはとても失礼ではないか−私がずっと記憶に残っていたのはこれが理由)??
ウェルザー=メストの演奏は、確かに、カラヤンのように暗譜で演奏するスタイルではない。
しかしその演奏姿勢は極めて謙虚であり、オーケストラや周りと十二分に対話して演奏会に
望んでいる。しかもカリスマでもって強引に音楽を押し付けたり、楽員を引っ張ることは
しない。その意味では、とても現代的な指揮者だと思う。
このニューイヤーコンサートでも、その特徴は十分に発揮されている。
CDではよく分からないかもしれないが、映像付きで見ると、例えば小澤征爾やカルロス・
クライバーの時と、明らかにウィーンフィルのメンバーの表情が違っていることが分かる。
指揮者のタクトに合わせているものの、彼らもお互い顔を合わせながら笑顔で演奏している
のだ。まるで指揮者が設定された枠の中で、自由に動き回ってる子供のようだ(それでも
演奏としてまとまってるところに、指揮者と楽団の凄さを感じる)。この演奏会で感じるのは、
ニューイヤーコンサートは、聴衆や楽友協会を支えてくださっているパトロンのためだけで
はなく、「彼らのためのコンサート」という意味も含まれているという事実だ。
その感じは、まるでクラメンス・クラウスが始めた頃のニューイヤーコンサートに似ている。
私は54年のそのコンサートの演奏をたまに聴くことがあるが、あのワクワクドキドキする
ような演奏は、指揮者だけでなく、オーケストラのメンバーが演奏会を楽しんで演奏しなけ
れば成し得ない演奏だった。
ただ、その時の演奏と演奏と比べると、今回のウェルザー=メストの演奏はちょっと物足り
ない点はある。
あの時の演奏−クラメンスクラウスの54年の演奏は、お互いオーストリアの人だから成立
し得たものもあったが、より高みを目指した非常に強い意欲を感じた。多分時代がそう
させたのかもしれないが、カラヤンとのニューイヤーコンサートも、ただの演奏で終わら
せないという意欲を、オーケストラのメンバーからも沸々と感じるものがあった。
だが、今回のウェルザー=メストのニューイヤーコンサートは、オーストリアという、
ドイツ人と違ってストレートな感じはなくて(ちょっと可愛らしく表現するとすれば)
ハニかんだ側面を感じる独特の文化はリアルに感じるものの、まだ一歩抜き出せていない
のでは?と思う感じはあった。
事実、今回取り上げられていたウィンナ・ワルツの曲の数々は、とても巧みな演奏で、
曲の配列もよく考えられていたが、なにか物足りなさがあった。ウィンナ・ワルツを
「オーストリアのローカルな貴族向けのポップス」という観点で受け止めるのであれば、
その段階でも最良のものを提供していると思うが、もう一歩踏み込んだものを望む人も
いると思う。今回のコンサートは、リスト等ヨハン・シュトラウス一家以外の音楽も
含まれており、それらの演奏自体、とても巧みな演奏だったが、その印象を否定する
ものではなかった。
一言でまとめるとすれば、最高の演奏ではないが、最良の演奏だと思う。
プレートルの演奏も大変面白い演奏だったが、この21世紀で、「オーストリアのローカル
な貴族向けのポップス」を楽しめたのは、すごいことだと思う。それだけでも十分価値の
ある演奏ではないかと思う。