「ドーダ」とは「自己愛に源を発するすべての表現行為」(p7)である。そしてドーダ一元論の立場から、「日本の歴史で、ドーダが一番強烈にあらわれている」(p10)幕末・明治期を、水戸学・西郷隆盛・中江兆民・頭山満などを焦点として論じる。
「知的ドーダが正しい水路をたどって流れていくことができずに滞留しているため、そこで阻害されたドーダ・エネルギーが、暴力ドーダというはけ口へと殺到した」(p69)というエネルギー論的比喩や、「ドーダは一般に、子供のときにひ弱で、まるで女の子みたいだと蔑まれていたような男の子にこそ発現することが多い」(p218)という男性の幼児体験(去勢恐怖?)への参照、「あえて」と理由不明の断りつきでのラカン援用(p283)、何より自己愛への関連づけなどから、リビドー概念を連想する人は多いだろう。実際リビドーでもサ(ドゥルーズ・ガタリ)でも唯幻論(岸田秀)でも僻み(三浦雅士)でも、論は組み立てられたと思う。
じゃあ何故、ドーダなの? その効用は? 私見では、おふざけの空気を濃厚に漂わすこの概念の採用により、著者は大手を振って下世話に、世俗的に語る免罪符を得たのだと思う。それは「人間所詮、色と欲」にも匹敵する無敵の視座を著者に与えている。もちろん著者の資質あってのことだろうが、ドーダが一撃となり、著者は自分の求めていた文体を発見したのではないか。
じゃあ何故、この語り口だったの? それは西郷隆盛を水源とする禁欲ドーダを批判することで近代日本の抑圧を解除しようとする本書の成否が、その目論見を裏切らない「シニフィアン」(p230)の有無に懸かっていたからだ。だから著者はドーダに対して深い恩義を感じているのだ、と私は思う。