本書の著者である東京外大学長亀山郁夫氏は、平成20年2月15日の文部科学省の学術研究推進部会で、委員や役人を前に、学長裁量経費で、大学出版会を立ち上げたとのべている。国立大が独立法人となり、国民の税金を資に、こうしたことも可能になったのであろう。その企画実現のトップを切ってデビューしたのが、本書である。大学出版会の刊行物という以上、商業出版では採算がとれないような高度の学術性、専門性をそなえたものか、仮に大衆的な啓蒙性を目的にするにしても、質的に高いものを期待したくなる。本書でいうならば、日本の成熟したドストエフスキー読者の評価に耐えうるものであるかどうかということである。しかしこの点では残念ながら疑問符を付けざるをえない。
基本的な論旨はすでに既刊書(『カラマーゾフの兄弟』訳の解説、『謎とちから』、『『罪と罰』ノート』)に書かれたものの繰り返しであり、江川卓の『謎解き』に主として依拠しながら、ロシアの研究者達の注釈や解釈を取り入れているが、肝心の著者独自のオリジナルな解釈となると、テクストを誠実に踏まえるというよりも、主観的な空想、妄想に支配されている。たとえば、ラスコリニコフへの母親の手紙は彼の「前途に明るい未来が開かれていることを暗示しています」「妹とルージンの結婚式をめでたくすますことができれば、彼にとって金銭的な不安もなくなります」(67頁)という記述、これは「母の手紙は彼を苦しめた」という小説のテクストに始まる主人公の意識ののたうつような長いモノローグとどのように関係するのか?母親の手紙によって「神は、救済の手を差し伸べた」(同)などと、わけの分からない解釈がどこから生まれてくるのか?このようにテクストに対して無神経な態度をとりながら、「私のドストエフスキー理解は一貫している。それは、書かれたテクストを絶対化しない、テクストには二重構造があるという信念である」(261頁)などと述べるのである。
『謎とちから』(文春新書)のレビューで私が批判した「去勢派」についての恣意的な解釈は本書でも引き継がれているが、研究者の立場で指摘しておかなければならないのは、ラスコリニコフの出身地がR県(リャザン県)であることについて、江川卓が突き止めたと(73頁)していることである。1970年代にソ連の研究者がすでに指摘していて、日本ではそれを受け売りしただけのことに過ぎない。
題名の「共苦する力」の「共苦」はロシア語の「サストラダーニエ」を直訳で借用したものと思われるが、ある意味でドストエフスキー文学の本質的な理念にかかわるこの用語を著者はただのお飾りとして利用しただけで、なんらテクストの深い読みに裏づけられたものではない。