本書の価値は、前半の伝記よりも、その後の『カラマアゾフの兄弟』、『「罪と罰」について』、そして『ドストエフスキイ七十五年祭に於ける講演』にあると私は思う。ここで筆者が述べていることは、共感できるものばかりでうれしかった。批評にしては飛躍していると思える箇所もあったが、力が入っていて面白い文だったので、納得して読めた。学者の論文ではないのだから、評論もこのくらい読者を楽しませていいと思う。では小林秀雄らしい名文をいくつか抜き出してみたい。
《ラスコオリニコフは生活上の失敗から孤独に逃げたのでもなければ、ある生活上の確信から孤独を得たのでもない。彼と現実との間には殆ど生まれ乍らのと形容したい様な、いかにも自然な不協和音があるのだ。彼にとって孤独はあらゆる意味で人生観ではない、人生にのぞむ或る態度たる意味はない。彼は孤独の化身なのである。》
《若し、創作後に「創作ノオト」が書かれたなら、言ってみれば、「一篇の冒頭、ラスコオリニコフは自殺する」とでも書かれたであろう。ただ、彼の呑んだ毒薬は致死量を超えていた。物語は、死ぬ事もかなわぬほど深い絶望から始まったのであった。》
《パスカルの有名な言葉。「イエスは世の終わりまで苦しむであろう。われわれは、その間眠ってはならぬ」ドストエフスキイも亦眠らなかった。それが或る人々には彼の不眠症と見えた。》
これら以外にも名言は出てくる。そして、解釈に賛成できたものが多かった。ドストエフスキーの解説書で一番だと思っている。