ドイツ在住経験のある著者が、「整理整頓」「掃除」について「風水」も「開運」も一切用いずして説いた快作(そういう意味では)である。
だいたい、「整理整頓」「掃除」のすすめになぜ「風水」とか「開運」が必需品になってしまったのか、そっちのほうが怪奇極まる現象なのであるが、「ドイツ流」は、あくまで「合理性」を追求しているということで、「捨てる技術」からブームがスタートしたころに一歩戻った印象がある。
著者のドイツ時代についての記述は苦笑の連続なのだが、ドイツの隣人たちにバカにされながら、そうとも知らず「木を切ってはいけなかったんだわ。ごめんなさい。」と反省したり、ゴミに香水をかけるなどのいじめを受けても「生ゴミを出しすぎる私がいけないんだわ。」とこれまた反省している著者は、本当にまじめな日本人の姿そのものだ。
そうやって、しおらしくしているから、なおさらバカにされるのである。
お互いに「これでいいんだ」と思っているところから、「どちらかに不満がある。それではどこをどのように譲歩しあうのか。」という交渉が生まれるのである。この人のように、交渉する前から「私が改めなければ」などという態度は、おそらく日本人独特のものである。
まあ、そういった修行の成果もあって、現地の主婦に半分バカにされながらも見聞を重ね、達人となって帰国した著者は、今では自室に「ドイツ」を繰り広げているわけだ。
しかし、この人は「ドイツ」の洗礼を受けたがゆえに「神秘」に行かなかっただけであって、そうでなければやはり「風水」「開運」をもって説いたであろう、というのが個人的な感想である。要するに、「風水」「開運」の位置に「ドイツ」が来たために、それが入り込む余地がなかった、というだけのことだ。日本人はそのコンプレックスゆえに、いつも何かを迎え入れるための空洞を芯のところに持ち続けているようだ。