廣松渉存命中は、この訳の元になった河出書房版を参照しなければ、この本を読んだことにならない、というハナシがまかり通っていた。「資本論」や「経済学哲学手稿」より読みやすく、ストレートにメッセージが書かれており、天才に垣間見られる独特の輝きが、その断片性と相俟って、古くから人気のあった本。よく知らない人は、廣松の主張だけ斜め読みして、あたかも他の版や翻訳が、全然違っているかのように思っているが、それは間違いである。配列などが大きく異なったり、確かに少し趣は違うが、出てくる文章やメッセージは、概ね同じ物ばかりだ。もちろん、未完成の遺稿だけに、翻訳の段階で、通常の翻訳よりぶれが大きいともいえるが、もとより、本としての体裁をなす前に放棄されている以上、著者の「真意」なるものを想定することは出来ない。おまけに、そもそも本書は、「ドイツ・イデオロギー」の部分訳でしかない(原本は何倍もある巨大な本である)のだから、断片的なメッセージがきちんと訳されていれば、それ以上の正しさや優劣を競うのは、極めて不誠実な発想である。その上、廣松は原本を見ていないことが判明しており、この点からも、文献学の基本を逸している以上、他の翻訳をとやかく言えないはずである。行間欄外の書き込みを、通常強調に用いる太字を勝手に使用して表記するなど、隠れた意図的な操作さえ行われている。追補書き込みが、強調したい点だとは何の保証もないし、未完成である以上、もし本にしていたら、大きく書き換えがあった可能性さえある。エンゲルスの「フォイエルバッハ論」の中にある本書の該当部分に関する論述から、これが「最終版」である、との根拠を広松は得て、その上で、本書の編纂の精度を問うているわけだが、そもそも、本にしない状態の草稿を以って、「本にする最終状態」と等価に見て話を進めることは、全然理に適っていない。結局、不確定要素が多すぎるのに、とやかく理屈をつけて精度を競うと言うのは、自然科学から見れば信じられないでたらめさで、この分野が早晩一般人から見放される(すでにそうなっている)所以だ。翻訳としては合同出版の花崎訳が最良であり、あれを勧める。古い三木清の翻訳は、小林秀雄に絶大な影響を与えており、「様々なる意匠」の有名な件は、そこから出ている。ほんとうの文化とはそういうもので、偏狭な内ゲバ精神では何も出てこないと思う。