著者の言葉で僕自身もまったく同じ信念をもっている点がある。それは、物語の作劇法はあくまでも”テーマをあぶりだす為の手段でしかなく、その時にとびきり有効な手立てを探すべきで、フォルムそのものの完成を目指した芸術のための芸術なんて犬に食われろ”という事だ。演劇・文学等のジャンルで、「リアリズム」という根拠と論理的一貫性を駆使した近代文芸の手法変革が60年代から80年代に花開いたのはそのフォルムで、その時の「生」を描く事が困難になってしまったからだ。つまり「前衛(なんて陳腐な言葉だろう)」と称された著者も含め、「リアリズム」は作家や読者や観客にとって「リアル」ではなかった。だからこそ、著者らの手法は、ごく普通のこととして受け入れられた。しかし、だからこそ逆も真なりで、また改めてリアリズムへの必然性が生まれても全然かまわないと思う。本作は著者の戯曲の中で最もストレート。リアリズムとして非常に完成度が高く「読む為の文学」としても受け入れやすい戯曲となっている。個人そのものの内奥を深堀するために選択しただろうこの手法で実に個性的な三人が描かれる。自らを天皇と思い込む男、性同一性障害を明るく乗りこなしつつ内奥の闇を抱える男。そして医師としての強さと脆さをもつ女。この三人の関係性と個々の人格が見事に掘り下げられ、そのデキは秀逸。しかし、著者の怜悧な洞察は、決して予定調和には終わらない・・・。関係性の豊かさの裏に深く存在している果てしない空洞が表れたとき、それは眼を覆いたくなるほど、胸に痛い。