デリダの「脱構築」概念と正面から格闘した名著。やや重い文体ながら、粘り強い思索によってジリジリと対象に肉薄してゆく斉藤氏ならではの、掘りの深い本だ。初期の「エクリチュール」や「差延」という概念から、後期の「贈与」「正義」論まで、「脱構築」という一貫した視点から読み解く。本書の優れたところは、なぜ脱構築が「良いこと」=「正義」なのかという疑問に答えている点にある。そもそも脱構築を繰り広げることは、際限のない相対主義に陥ることではないのか? いや、そうではないのだ。重要な出発点は、世界が現象することは、同時に「本体が隠れる」ことであり、我々に与えられているものは、自我も含めてすべて「本体がもたらした痕跡」だという根本把握にある。
しかし我々は「痕跡」の「繰り返し」の中に「同一性」を読み取ってしまうので、「本体が秘匿される」こと自体が隠蔽されて、現象(=痕跡)を本体と取り違えてしまう。その結果、「偽の本体」を有難く拝受する受動性の内に閉じ込められ、根源的な自由を見失ってしまう。たとえば我々は、法(則)を実体化して、それを単に個別的状況に適用しているだけと思いがちだ。しかし、裁判官が法を参照しながら個別事例に判決を下すとき、それは法そのものをそのつど創造している。書かれた法という「痕跡」を、様々に多様な事件において「別の仕方で現象する」痕跡に「読み替える」ことによって、「正義それ自身の秘匿性」を守りながら、正義に関わっている。つまり裁判官は、つねに法という「痕跡」を脱構築するからこそ、正義に関われるのだ。斉藤氏によれば、これこそ、脱構築が根源的自由そのものであり、正義であり、良きものである理由なのである。