この本が日本で発売された意義は大きい。何故なら、岩田規久男氏のような考えを持った学者は、未だ国内では少数だからである。
現代の欧米の経済学のメインストリームは、ケインズ理論もマネタリズムも合理的期待形成学派も包含した形で発展を続けている。ところが日本では、マネタリズムや合理的期待形成仮説は標準から外れた理論として、言及されることは非常に少ない。しかし、例えば合理的期待形成仮説を牽引した3人をみてみると、R.ルーカスはノーベル賞を受賞し、本書にも引用されているT.サージェントは2007年の全米経済学会会長を務め、R.バローはコネチカット大学が公表する世界で最も影響力のある経済学者の内、常にトップグループに位置している。
「貨幣錯覚」とは、所得や財の価格について、実質的価値には目を向けず名目的価値のみで判断して行動することを指すが、さしずめ日本は「経済学錯覚」とも呼ぶべき、世界標準とはかけ離れた経済学が主流を成し、不適切な経済政策が20年以上にわたって続けられ、経済と経済学のガラパゴス化が進行している。
1980年代後半、日銀は「世界に冠たるウインドウ・ガイダンス」と喧伝し、大手銀行の貸出額を「窓口指導」という名のもとにマネーサプライを直接コントロールし、バブルを発生させた。当時、私は都市銀行で営業を担当していたので、月末近くになると本部から「今月はあと〇〇億円伸ばせ」とか「もう日銀ワクが無いから今月の融資には応じるな」等と指示があり、その度に大企業や中堅企業に頭を下げて回っていた。
その後、旧大蔵省の総量規制と共に、日銀は引締政策に転じバブルを崩壊させ、羹に懲りてなますを20年も吹き続けている。岩田氏はバブル崩壊直後から日銀の金融政策は誤っていると唱え続け、ほとんど孤立無援の状況から、今日まで至っている。
経済政策には大きく分ければ、財政政策と金融政策があるが、この内景気を回復させたり過熱を抑え込んだりするのに、中央銀行のベースマネーをコントロールすることが決定的に重要であることは、日本以外では異を唱える学者は少ない。
岩田氏の理論はケインズの貨幣理論が基礎になっているのは疑いようがないが、提言される政策は、最先端且つ日本以外では極めてノーマルなものである。岩田氏は今回、ややもすれば焦点がぼやけていたインフレ目標やマネタリーベース拡大がいかにしてデフレを脱却していくか、その波及経路を具体的なロジックとして描き出すのに成功している。この点は本書を高く評価したい。
一方、我が国の多くのエコノミストは、デフレから脱却する為、フィスカル・ポリシーが無力且つ財源不足とわかるや、日銀の政策には触れようとせず、全要素生産性(平たく言えば技術革新)の向上や産業構造の改革で付加価値を高めるのが大事であるとか、まるで具体性が無く、需給バランスから見れば、逆にデフレギャップが拡大するような主張を平気で続けている。挙句の果ては、アニマルスピリットとイノベーションがデフレ解消につながると荒唐無稽な発言も少なくない。投資を目指した企業家精神や技術の向上など、学者やエコノミストに言われなくても、多くの民間企業では常に血のにじむ様な努力を続けているのである。
尚、本書第五章「デフレは貨幣的現象である」というフレーズに関して、かって白川総裁は『金融政策論議の争点』という書物の中で、以下のように述べている。「ハイパーインフレのような極端な例を持ち出さなくても、中央銀行がリザーブ(日銀当座預金のこと)の供給を絞り金利を十分引き上げれば、どんなに燃えさかるインフレでも、いずれは終息する」と。一方で、1800年代後半の英国大不況を出してきて、マネーサプライが増加したのに物価が下がったと、何の説明も無く例示している。当時から、全く煮え切らない男である。19世紀後半の英国のデフレは、第二次産業革命と鉄道の普及等により潜在成長率が大きく高進したのに対し、他の多くの国が金本位制に移行しタイトな緊縮政策をとった為、貿易立国だった英国はデフレ・ギャプによってマネーサプライの増加がかき消されたと考えるのが妥当である。一地域の過去の一時的現象をとらえて敷延するとは、全くもってエコノミストの風上にも置けない。
長くなって恐縮だが、本書の紙面制約から十分触れられていない以下の4点について、僭越ながら簡記したい。
1.第三章にかかわる円高容認論について
円高により、輸入物価の下落や、企業が厳しい状況で競争力が強まるので受入れるべきとの主張があるが、これは本末転倒している。基軸通貨国以外の国で、自国の通貨が上昇して得をするということはあり得ず、トータルとしては必ず国益を損なう。そうでなければ、過去において為替切り下げ競争など起きるはずも無く、現在の中国が人民元のフリーフロート化を拒む理由も無い。
2.付論のマネタイゼーション批判について
日銀が、長期国債を引受けることは財政政策に当たるので認められないという批判がある。その根拠は、国債発行のモラルハザードが起きるとか、悪性インフレにつながるというものである。しかし、これによって国債の財源問題は一気に解決し、景気はほぼ間違いなく回復し、税収は伸びる。もし、インフレ率が許容範囲を超えそうになれば、日銀は引受けを中止し、売りオペによるファインチューニングを行えばよいだけである。
3.第四章の中の人口減少デフレ説について
現代経済学において、長期の成長率を高める要因は'(1)労働力'(2)貯蓄'(3)全要素生産性であると概ね合意に至っている。生産年齢人口の減少は、供給サイドでの低下要因である。需要が一定なら一般物価は上昇するはずである。では、需要サイドはどうであったか。2008年と2009年の人口変化は0.1%のマイナスにすぎない。これでは、人口減少がこれまでの長期一般物価下落の原因とみるのは誤りである。
4.日銀総資産が対GDP比で高水準にあり、金融緩和は十分なされているという主張について
日銀資産が高水準なのは(1)日本人の小切手やカードによる支払が低率であること、リスク回避傾向が強いことにより、個人の現預金の保有率が他の先進国に比べて際立って高いこと(2)他の諸国が着実に名目GDPを伸ばしたのに対し、日本は過去20年間名目GDPがほとんど伸びていない。つまり、日本は分母が低水準のままなので、日銀資産の比率が諸外国に比べ相対的に高くなっただけ、の2点が理由である。