果たして宇都宮徹壱は写真家なのであろうか文筆家なのであろうか。
やけにモノクロームが多く、ピッチにほとんどレンズを向けないこの<写真家>の作品が上手いのかそうでないのか。僕にはよくわからないが、少なくとも他の写真家のそれとはどこか異なる<たたずまい>がある。
文章のほうはもう少しキチンと評価できる。
やや時代掛かって、どこかにセンチメンタリズムを漂わせながらも、全体としては抑制の効いた文章は、サッカーライターの中ではおそらく美文に入るだろう。
果たして宇都宮徹壱は<ディナモ>の旅を通じて、楽しく充実感をもった取材ができたのだろうか。
「客がほとんど入らない、巨大なおんぼろスタジアム。ピッチ上で繰り広げられる、実に退屈でお粗末なプレー。過去の栄光にしがみつきながら、健気に応援し続けるサポーター」を「必要以上に厳重な警備と、周囲の好奇の視線」にさらされながら取材する日々が。
好事家、物好きと自称する著者の作品はこれで3冊目だが、取り上げる素材は確かに個性的である。しかし本書で著者が取材対象に向けるまなざしは、随分とフクザツさを増しているように思える。
スポーツクラブに<ディナモ>なる詞を冠するのは文豪ゴーリキーが発案したといわれ、旧ソ連を源流に東欧の多くのクラブ名で用いられた。
その象徴するものは<国家>、<権力>。
人々は国家に対する不満の表明をスタジアムの中でのみ、このディナモを罵倒することでなし得ていたが、東欧が<自由化>された現在、人々は「過去の栄光」の残滓をディナモに求めて、スタジアムにやってくる。
ディナモを追って旅を続ける著者の目に、そんな人々はどのように写り、逆に人々はこの極東から来たイエス・キリストにも似た風貌の<好事家>をどのような視線で見ていたのだろう。