1989年にある団体香港旅行が催行された。それから十数年の歳月が流れたが、当時のツアー参加客や添乗員たちは、自分たちが一人の青年を香港に残したまま帰国してしまったらしいということを知らされる。しかし誰一人として、そんな青年がいたことなど憶えていない。本当に青年は自分たちと一緒に旅していたのか…。
物語の終盤でこの青年の謎は、一応の決着を見ることになります。しかしこの小説の眼目は謎解きにはありません。謎の果てに見えてくるのは、私たちが誰か他者を知悉することの絶対的不可能性と、さらには私たちは他者というものを様々な情報の集積によって作り上げていくことしか出来ないというある種の絶望感です。
インターネットによって情報の記録や探索、そしてその創造すらが当たり前の時代にあって、この物語が私たちにつきつけてくるのは、まさにこうした情報の集積が、そもそも存在しないものを生み出し、そしてその存在しないものに多くの人々が群がり追いかけ続ける奇怪な世界です。
言い換えれば、他者は時に恣意的な情報の集積という手段であなたの像を勝手に作り上げ、やがてその像があなたを呑み込んでしまうおそれが十分にある世界に私たちは生きています。この小説の青年はボンヤリした、存在感の希薄な男として登場しますが、それはまさに他人の描いた像に飲み込まれやすい男の喩えとして描かれているわけです。また同時に、この青年を探す人々もそれぞれ自身の存在の希薄さに心のどこかで恐れおののいている様子が見て取れます。
その世界にあって「忘れずにいるべきこと」は、自分が自分であることを揺らぐことなく信じられる自分自身を築くことです。
「自分探し」という言葉が一時もてはやされましたが、自分は探すものではなくて作りあげていくものなのです。そのことをこの小説は大変奇妙な設定のもとに訴えかけているような気がしてなりません。