当時14,5歳だった女の子たちの稀有な体験は、ある人には古き良き思い出であっても、
ある人にとっては心の中にそっとしまっておきたい記憶でもあった。
でも、広島でテレビ報道記者をしていた堀川さんの「女学生たちがチンチン電車に乗務したという事実を埋もれさせたくない」という熱意が、
70歳代にさしかかった元女学生たちの心の扉を少しづつ開いていった。
広島電鉄家政女学校に通い車掌や運転士を体験したFさんは、電車を運転中に1945年8月6日午前8時15分を迎えた。
車体が盾となったのか、幸い目立った傷はなかった。
でも、堀川さんとの出会いがなければ、体験を他人に伝える決意に至らなかったかもしれない。
…Fさんは原爆投下後の混乱のなか、はからずも一人で故郷に帰ることになり、被災した級友の看護にあたれなかった。
「私ら、生きとるということが、亡くなられた人に対して申し訳ない。私一人も救護してないでしょ。…
でもね。家政女学校のみんながね、死んだ人を看たって言われたら、ものすごい胸が痛みますよね。…
広島が好きだったから、みなさんが頑張られたのに、私は何もしなかったという引け目はありますよ、今でも。
どんな事情で帰ってもね。…」
「年寄りがと思われるかもしれないけど、もういないんですから、私たちが話さないとね。
だから…動けるあいだは平和の大切さを伝えていくのが、私らの義務じゃと思うからね。」
Fさんの長い告白は、大震災などのつらい記憶をもつ現代の私たちの心にも大きく響き、
人に言えない悩みをかかえて苦しんでいる多くの人にとって、強い力を与えてくれるものと思わずにはいられない。