全7章のうち、最終章は、それまでの章とは異なるスタイルで書かれている。それまでの6章は、かなり冗長でだるいとはおもうけれども、かつて書いててきた「エンパイアスター」などで展開されてきたことが、デゥレイニー青年の思考のプロセスとともに、確定的に示されていた。とすれば、なお自身の中にある混沌としたものの断片が、最後の章で噴出する、とでもいうのかな。形にならないディレイニーの中にある断片が示される、というか。テキストの成立のしかたまで明らかにされながら、未完成のものをつきつけられる、その混沌としたドライブ感は、実は「ダールグレン」という作品を、その時点でのディレイニーの集大成などではなく、現在形で成立させたものなんじゃないか。
読むのがたいへんな小説だけれども、最後の章を受け止めるために、がまんして読むというのは、アリだと思う。
ところで、巽孝之の解説が書かれた日付は3月11日になっている。そうなると、どうしてもベローナという都市が震災後の世界と重なってしまう。けれども、巽はそのことにいっさいふれていないし、ふれるべきではなかったとも思う。そこは評価したい。ベローナという都市は、ディレイニーの内宇宙に存在する都市なのだから。本当に、震災と原発事故がなく、ただ都市の中に潜在的にある可能性としての荒廃した都市として、重ねあわせられるものなのだから。本当に、ダールグレンのように、自分の内側だけにベローナを持つだけであれば、どんなに良かったか。