プロローグと第1章「託す仕組みとしての会社」は、高橋氏らしい歯切れのよい議論が展開されている。しかし、タイトルにふさわしい論述はここまでである。それ以降の各章に本書のタイトルにふさわしい論述は見当たらない。第2章「託されし者、経営者」は、会社法一般の初等的な解説であって、章のタイトルとも完全にミスマッチである。ちなみに「いまや、資本金が1円でもあれば株式会社を設立できるようになった」(p.063)とあるが、資本金の額は法的にはゼロ円でもよい。「1円でも」という説明は、会社法を生半可に勉強した人がよく犯す誤りである。第3章「オーナー経営者から専門経営者へ」は、バーリ=ミーンズの『近代株式会社と私有財産』の論考に対する批判である。結論として、「何でもかんでも持株比率や株主構成の話に結びつけて見てまうのは、(中略)滑稽で荒唐無稽で迷信的なのである」(p.100)と書かれている。バーリ=ミーンズの古典的著作はいざ知らず、今さら「何でもかんでも持株比率や株主構成の話に結びつけ見てしまう」ような単純な議論は研究者の間であれ、実務家の間であれ聞いたことがない。例えば、持株会社を選択する理由は、子会社の経営をそれぞれの事業にふさわしい専門経営者に委ねるためであって、「株主の分散が進んで、最大株主の持株比率が極度に小さくなる結果として、経営者支配が実現する」(p.090)というバーリ=ミーンズの論考では、現代企業のガバナンスを説明できないことは自明である。第5章「制度的同型化」は、ドイツの共同決定法の解説が主内容であって、「ダメになる会社」の議論とは全く結びついていない。第6章「経営者を選ぶのは誰だ」では、1997年に破たんしたヤオハンの事例紹介がすべてであり、ここでも「ダメになる会社」一般に関する帰納的洞察が展開されているわけでもない。要すれば、本書は高橋氏が過去に書きためた論文等を再編集しただけのものであって、タイトルは編集者が商業的に工夫したものに過ぎないのだろう。