ポストモダン思想の浅薄な理解のパターンとして、「二項対立を超えるため、どっちつかずのはぐらかした態度を取る軽薄な考え方」というものがあるが、勿論デリダもドゥルーズもそんなことは一言も書いていない。浅田氏もそれは誤解だとあちこちで言い続けた訳だが、実際そのような誤解を巻き起こしかねないタイトルの本書は、文庫化されず絶版になって今日に至っている(笑)。
内容的にはベイトソンのダブル・バインド論を巡って、「精神と自然」訳者の佐藤良明氏、臨床医の花村誠一氏と行った鼎談が核になっているが、花村氏により提起された分裂症例をヒントに、アルトーやドゥルーズ=ガタリに向けてダブル・バインド論を開いていく手際の鋭さはやはり流石である。事実上、前書きにほぼ全てが纏められているので読み進む上で重複感は否めないが、それ以上に気になったのは以下の点である。
ダブル・バインドというのは日常生活の中で誰もが経験せざるを得ない状況であり、社会で生きる社交性とはそれを「うまくやりすごす技術」(32p)だ、と浅田氏は語る。その一方で、理論的にはダブル・バインドが上部から包含される流動的システムを「コスモロジカルなハーモニー」(12p)として描いたベイトソンを批判しながら、「柔らかな差異の揺らめきを宿した受精卵というようなものではなく、微粒子がものすごい超高速で飛びかっているがゆえに、あたかも全体として一種の塊りであるように見える状態。まさにアルトーの"器官なき身体"」(64p)に「平板な文節構造から逃れ去るひとつのチャンス」(120p)が見られる、と整理する。
「哲学と実践」ということを常にポストモダン思想の論客は問題にしていたが、実際のところベタな実践論は一般生活を「うまくやりすごす技術」に尽きることを浅田氏は本書で指摘している。「臨床実態としてのスキゾフレニーは悲惨以外の何ものでもない」(119p)と彼は語っているが、じゃあ、「器官なき身体」を称揚したポストモダン思想における実践性って何だったのかという点は、実は花村氏の働いていたような臨床の現場からの検証こそが今必要なのかもしれない。(一方で、五月革命の後に精神分析の現場でしかまともな「実践」領域が無かったのかどうか、ということも、きちんと検証されるべき時代になってきていると思う。)
ポストモダン思想を読み直していて最近感じていることをグダグダ書いたが、本書の話に戻るとベイトソン入門として今日でも外せないレベルの内容だし、また中々掴み難いアルトーの「器官なき身体」という概念を分裂症者の具体的事例の中で分かりやすく理解するうえでも助けになる。ポストモダン思想のガイド本としては「逃走論」「構造と力」よりもずっと読みやすく、未だ有効な一冊ではなかろうか。