当時、世界一退廃した街と言われたダブリンを舞台にした連作短編集。旧来、「ダブリン市民」の名で知られていた作品だが、柳瀬氏の訳で新しく甦った。
各編は各々独立しているのだが、「あの話に出て来る司祭とこの話の司祭は同一 ?」等と考えさせる辺り、計算尽くしなら凄い。各編はダブリン市民中の、一途な少年、女性経験の乏しい青年と悪友、男との交際を父親に咎められた若い女性、アル中の会社員・商人、場所柄をわきまえない強欲な母親等の各階層の人々の体験や突然舞い降りる天啓(いわゆるEpiphany)を描く事によって、当時のダブリンの退嬰的世相や人生の一断片を浮かび上がらせたもの。登場人物に必ずしも感情移入出来る訳ではないのだが、捻った構成で読む者を唸らせる。全体として、イギリス本土を含むヨーロッパに対するアイルランド人の矜持が窺える。これらの特徴を凝縮したのが最終作「死せるものたち」で、作中に溢れる情愛の念には感動した。各編の冒頭には、作品縁の挿絵が挿入されており、雰囲気作りに貢献していると共に、編集者の意気込みが感じられる。特に、「エヴリン」では、発表当時(ペンネームは別)の掲載文が載っており、ビックリした。
本作の場合、柳瀬氏の訳にも触れておく必要があるだろう。非常にこなれており、単なる翻訳の域を越えて、完全に日本文学になっている。ダブリンの人々や街の様子を、初めから日本人作家が書いたかのようである。巻末に、「翻訳秘話」が載っていて、ジョイスが原文で用いている"言葉遊び"や各種の引用を、柳瀬氏が如何に翻訳したかが丁寧に説明されている。「フィネガンズ・ウェイク」と同様だが、この解説を読むのも楽しい。
難解と言うイメージのため敬遠されがちなジョイスだが、本作は(少なくとも見かけ上)平易に書かれている短編集なので、入門と言う意味では最適なのではないか。