『週刊現代』の連載を元にしたコラム集。タイトルの「ダダ漏れ」というのは,ネットの普及・発展によって流通する情報が増大していることを指すようだ。たとえばツイッターでつぶやいたウソがすぐに検証されて評判を落とすといった事態も含むのだろう。「民主主義」が何を意味するのかは不明。
中身の文章についてハッキリ言えば,頭の悪い人間が賢く見られたいと思って書くような典型的な駄文である。分かりにくいというレベルを超えている。論じるテーマがコロコロ変わり,問題は提起されても解決は提示されず,主張はあっても根拠はない。本書をスラスラ読めた,と思っている人は,一度自分の知力を疑ってみた方が良い。
合間に挟まれる自慢話も失笑もの。念のために言えば,私は他人の自慢話を聞くのは嫌いではない。愚痴を聞くよりもはるかに楽しい。ただしそれも内実が伴ってこそである。
「科学論文のなかでウィキペディアを日本で最初に註で引用したのは私であるという,自慢するつもりのない実績もある。やっぱ自慢か(笑)」(p.74)
自慢なんだ(笑)。見せてよ,その "科学論文" とやらを。
なぜ日垣隆の本がそこそこ読まれてきたのだろうか,謎だ。1冊あたりの情報量がとても少ないのである。これに加えて「日垣は最低の人間だ」と感じたのが,足利事件に関する以下の記述。足利事件とは,1990年に栃木県足利市で起こった女児誘拐殺害事件だが,本書は以下のように述べる。
「かつて,足利事件の被害者であるAちゃん〔本文では実名〕の遺体写真を,私は見たことがある。捜査員が発見直後に撮影したものだ。〔改行〕あれから何年たっても記憶から消すのは難しい。四歳女児が凌辱の限りを尽くされ,ぼろぼろになって殺されていた」(p.196)
これのどこが最低なのか。
第1に,犯罪被害者の実名を記していること。このような場合,実名を出さないのが基本的なマナーだ(ただし種々の例外はありうる)。
第2に,遺体の表現について何の配慮も見られないこと。「凌辱の限りを尽くされ」といった記述のことだ。この表現に,遺族感情を逆撫でする以外の効果はない。
第3,なぜなら上記の表現は,写真を見た単なる感想でしかないからだ。質的にも量的にも,情報としての価値はゼロに近い。
第4,事件の悲惨さを伝える必要があるというのならば,主観的な感想ではなく客観的な記述を試みるべきである。
第5に,上記表現は不正確だ。著者の表現を借りれば,犯人は被害者を「凌辱してから殺した」ことになるのだろうが,写真でそんなことが分かるわけがない。実際,第1審裁判所は,殺してからわいせつ行為に及んだ,と認定している。周知のとおり足利事件は冤罪事件でもあり,判決が被告人を犯人とした認定は誤っている。しかしここで重要なのは残された証拠(=遺体の状況)からは,わいせつ行為が生前に行われたかどうかは不明だということだ。仮に遺体の写真のみから「凌辱の限りを尽く」したと判断できるのであれば,生活反応等を調べることで,その行為が生前・死後のいずれに行われたのかが分かるはずである。足利事件はそういう事件ではない。そもそも被告人は,強制わいせつ(致死)罪で起訴すらされていない。
ちょっと考えてみて欲しい。自分の子どもが殺されて,犯人が捕まったと思っていたら,十何年後かに実は真犯人は別にいて,それが誰かは分かりませんと言われた遺族がいる。知ったかぶったライターが,子どもは凌辱の限りを尽くされてぼろぼろになって殺されたなどという出鱈目を書いて平然としている。私が「日垣は最低の人間だ」と書いた理由が,お分かりいただけただろうか。
ちなみに足利事件の被害者遺族の「その後」については,日本テレビの清水潔記者が接触に成功している。『
調査報道がジャーナリズムを変える』第1章で,詳細を知ることができる。