フィリップ・ロスを読むのは、『欲望学教授』以来30年ぶりだ。映画化された『エレジー』の上映前に読んでおきたかっただけだが。相変わらず、性を語らせたら、今や右に出る者はいないというべきか、筆は冴え渡る。
「老いと性」がテーマであれば、対局にある若さへの嫉妬、若さへの郷愁という形で描かれることはありがちだが、ヒロインの美は、老若を超越したモディリアーニの裸体画に比する芸術作品である。「乳房」の美しさが、この小説の最後まで、ヒロインの存在以上の存在感と喪失感を表す。
『乳房になった男』である欲望学教授のケペシュは、老いてなお健在。最初のうち、男の性は文学史の上で、女性の性は音楽史の上で、語られるが、最後にはいずれも音楽と共に語られる。女学生との交わりには、ジャニスやジミヘンが。ヒロインとのセックスには、ブラームスやハイドンが。彼女と別れた後は、ベートーヴェンやモーツァルトを弾きながらの自慰。といった具合に、音楽が最初から最後まで流れていく。
「道徳的な美点をもつ女とでなければできない」フェティシストの息子は、「ジャニスがいなければ、父さんは70歳になって哀れな瘋癲老人になることもなかっただろう」とお互いに蔑み合う。
キューバ出身であるヒロインの、亡き父親に「もっとスペイン語で答えてあげればよかったのに」という後悔に、ロスの小説に定番のディアスポラのモチーフがちらりと現れる。
「音楽」によるオルガニズムを表現した三島も、「瘋癲老人」となっても、フェティッシュなマゾヒズムを追求した谷崎も、候補にはなれども、ノーベル賞は逃したが、さて、ロスはいかに?