大きなお世話なのかもしれないけれど、僕は、この本を読んで悲しくなった(ついでに、お金と時間を返せ、とも思った)。逮捕という大きな出来事も、野ばらをとりまく関係を変化させることはなかったのだな、と思った。
一応、自身の逮捕を題材にしている。登場人物の設定はフィクションなのだろうけれど、逮捕された経緯、供述の内容(知り合いから大麻を分けてもらっていたが、数ヶ月前にその知り合いと連絡が付かなくなり、しかたなしに海外で買った、というところ)やなんかは、事実通りだ。
ストーリーは、今までの野ばら作品と何ら変わらない(ある意味、すごい)。作家の「僕」が「君」に対して語りかける、いつものラブストーリー。ただし、このパターンの物語としては、野ばらの中では、かなり出来が悪い、と思う。どうしても、どこか、自分を弁護しようとする力が働いて、「僕」が必死なのだ。こういう自分語りな文体は、必死になってしまうと、どうしても、自己愛が勝ちすぎて、見苦しくなってしまう。野ばらの言葉で言えば、諧謔が、失われる。そのさじ加減のうまさが野ばらの野ばらたる所以だったのだけれど、今回は、そこが、どうしても、読みづらい。
270ページにわたって、延々とじめじめした泣き言のような文章を読んだあとで、やっと、10ページほど、少しだけ外に開けた文章に出会う。ここで、「僕」は、「君」との愛に気づいて、「君」に許される。
「君」としての読者は、これを、どう受け止めるか。なんだか、野ばら信者としての、踏み絵をさせられているような気になる。正直、今回、今までの作品の焼き直しのような物語は、つまらないことこのうえない。この作品の価値は、ただ一つ。自身の逮捕をネタにしているということだけ。作者にとっても、読者にとっても、物語云々はどうでもよくて、ただ、これからもファンでいられるかどうかを試されるだけのような。
作品の価値とは別のところだけのための本が書かれて、それが読まれる。そんな関係は、作家と読者の関係ではない気がする。僕の好きだった、以前の、自立した作品たちは、そんなことはなかった。だから、逮捕後に刊行された『幻想小品集』の、読者を突き放したような作風に期待したのだけれど。
これからの野ばらと付き合うには、作品の読者である前に、まず、「野ばらのファン」として、彼自体に寄り添わなければならないみたいだ。野ばらも、読者も、変わらない、関係の安定を選んでしまった。それは、もう、作家とも読者とも、パンクとも、乙女とさえも、呼べない気がするのだけれど、こんな僕の声は、きっと自立せずに寄り添い合う強固な関係の前にかすんでしまうのだろう。そこに、今の世界が見える気がして、そのことだけは、この作品の力と呼んでもいいものなのかもしれない。