「へ〜、なるほど、そう言われてみればそういう気もする」
というのが印象で、社会学というか、こういうサブカルと社会を結びつけて自分の言いたいことを言う人には、みんなそういう印象を受ける。
そう言われてみれば、そうかもしれないが、それって根拠あるの?なにを証拠に?データは?土台は?
という湧きあがる疑問には、本書は一切答えてはくれない。
筆者が参照にするのは、批評論壇という一般人にはなんら関わり合いのない狭いにも程がある業界の現在までの批評だけだからだ。
正直、はぁ、そうだったんですか。としか言えない。
大体にして、無理があるのだ。全ての作品をひとくくりにして「〜系」等とカテゴライズして社会を語るなんて。
確かに『エヴァンゲリオン』以降、「セカイ系」というような作品は目立ったような気がした。
それをバカバカしいなぁとも思った。
だけど、実際には「セカイ系」作品だけが世間に氾濫していたわけではない。
それは、一部のアニメとラノベとギャルゲーだけの話だ。
それこそセッマイ批評業界の中ではそれだけが批評されていたのかもしれないが、そんなことは知ったこっちゃない。
『エヴァンゲリオン』と『オウム』に拘泥し、社会も文化も矮小化して語りたい社会学者達だけがそう思っているだけなのだ。
例えば、『スレイヤーズ』は『エヴァンゲリオン』と同じ1995年に始まったライトノベルからアニメ化してヒットを飛ばした先駆的作品である。
フォロワーも多く、最近も新シリーズが放送された。
『エヴァンゲリオン』で綾波役をやった林原めぐみが同作でも主役のリナ・インバースを演じたことからも当時、アニメを観ていた人間には印象が大きい。
他にもメディアミックスで大成功を収めた『天地無用』も90年代の代表作品といっていい。
しかし、この評論で『スレイヤーズ』や『天地無用』が論じられることは一切ない。
なぜなら、この作品が90年代の閉塞した時代感を象徴していないからだ。
社会全体がさも、全て「終わりなき日常」に絶望し、メディア作品も、そんなものしかなかったと言いたいのは宮台真司を中心とする社会学者だけだ。少し視野を広げただけで、そんな作品こそ少なかったということがすぐに露呈するだろう。
それこそ、この著者が言うクドカンのドラマを評価しないサブカル評論家と同じなのだ。
文化は多様だ。特に昨今ほど文化の在り方が多様で様々な価値観が混在する時代はない。
それを「サヴァイヴ系」だか「セカイ系」だか知らないが、そんなもので一つ二つにカテゴライズは到底不可能だ。
評論家ができるのは一つ一つの作品の背景を丁寧に調べ、それを読者に判りやすい形で提示することだけだ。
正直、それができてもいないのに評論家だなんてちゃんちゃらおかしい。悪いけど。
「ブクロサイコー」が宮藤官九朗の考えたセリフでないことも、『木更津キャッツアイ』がガイ・リッチーの『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』と自身の舞台『熊沢パンキース』という暗い作品が基になっているとも、地域に拘っているのはTBSで磯山Pと組む時だけなのも調べれば判ることだ。松尾スズキの舞台は一度でも観たことがあるのだろうか?クドカンを語るのに松尾スズキのことには一切触れない等、正直、評論としては失格だろう。
結局、普通の人が普通に調べても判るようなことを見逃して社会とサブカル評論にかこつけて自分語りをしたいようにしか思えないのだ。
とは言え、ここまで情熱を持って意味が判るようで全く判らない事をこんなに書ける人はそうはいないだろう。
宮台真司といい、頭のいい人は一周回って超バカだということを教えてくれる一冊。