何度でも繰り返そう、人は物語から逃れられない。(382ページ)
本書の目的は、2000年から2008年ごろまで、すなわち「ゼロ年代」の国内文化における「物語」の「想像力の変遷」を追うことである。
90年代に入って「ポストモダン」の名のもとに「大きな物語」が失効して社会的な価値が流動的になると、「小さな物語」が乱立する状態になる。1995年以降は「エヴァ」に代表されるようにそうした状況から逃げてひきこもるタイプの想像力が語られたが、それは「DEATH NOTE」の夜神月のような「決断主義」によってとって変わられるようになる。ゼロ年代においては「不安な社会」はもはや「前提」であり、そうした中で小さな共同体が互いに排外的性格を強めながら乱立する「バトルロワイヤル」状態をいかに乗り越えていくかが問題なのだ。「エヴァ」的に「ひきこもる」ことを選択したところでそれは「何もしないことを決断した」ことにすぎず、弱者として取り残されてしまう。かといって夜神月になることはバトルロワイヤル状況を悪化させるだけである。「ゼロ年代の想像力」はこの状況にいかに対峙してきたのか。
このような形でゼロ年代を整理したうえで、宮道官九郎や木皿泉、よしながふみの諸作品や「仮面ライダー」シリーズなどを分析していく。
これだけ幅広い作品を次々に論じていく力量というかバイタリティは大したものだと思う。また、(おそらく)これらの作品に対する分析も、著者の時代理解も、かなりの程度正しさを含んだものなのだろう。
しかしながら、本作に対しては幾つかの違和感を提示しなくてはならないのも事実である。
まず、本作は極めて論争的な書かれ方をしており、何人かの作家、いくつか作品に対しては容赦なく低い評価を突きつけている。それ故読者の反発を招きやすい作品だと言わざるを得ない。そのこと自体は批評として至極当然のことではあるのだが、「切り捨て方」に疑問を感じるものも多い(例えば144ページで舞城王太郎が2005年以降「誰の目にも明らかなように」迷走をしたと述べられているが、これは明らかに説明不足だ。事実がどうであったかとは無関係に、議論の作り方がやや性急ではないか)。そのあたりのフォローに脚注をもう少し使えばいいのに、と思う。本作の脚注は本当にただの「おまけ」であり、本文の議論を強化するものではない。
また、作品の選び方が非常に恣意的だ。自分が高く評価したい作品を配置しながら、自らの意見を構築していく姿勢自体は全く問題ないと思う。全てを論じることなど到底不可能なのだから。しかし、例えば週刊少年ジャンプを最も参考になるサンプルとして取り上げてゼロ年代の想像力にDEATH NOTEを絡めておきながら、間違いなくゼロ年代のジャンプで一番「売れている」はずのONE PIECEに対してほとんど(というか全く)言及していないのはどうかと思う。作品を選ぶときにもう少し「売れたかどうか」などの数値的なアプローチを意識しなければ、「ゼロ年代の想像力」をデッサンしようとする文章の姿勢として、あまりに主観的ではないだろうか(べつにジャンプを重視するのが間違いだとか、ONE PIECEが著者の意見から外れる作品であるから著者が黙殺しているとか言いたいわけではない。ここでも、脚注で軽く言及するだけで議論の強度が上がるはずなのに、何故それをしないのだろうと素朴に思うだけである)。
そして、本作には「自己言及性」が欠如している。著者がどう思っているのかはわからないが、あくまで一読した印象として、この作品は、ゼロ年代の想像力を素描した「大きな物語」の佇まいをしている。レビューとして数行で議論の骨子がまとめられる程に(私のまとめ方が適切かどうかはともかく)、本書の議論は「明確」である。さらに言えば、とても「わかりやすい」整理の仕方をしている部分が多い。これは語り方として「大きな物語」を志向するものであるように思う。しかしながら、本書の議論に照らし合わせる限り、本書もまた筆者による「小さな物語」でなくてはならない。そのことに対して自覚的でなければ、本書はその本質に置いて矛盾を抱えてしまうことになるのではないだろうか。
我ながら偉そうなことを書いてしまった。議論の「正しさ」に異論をはさむつもりは全くない。ゼロ年代を考える「羅針盤」、あくまでもその一つとして本書は有効に機能するのではないかと思う。