本書が良書であることは疑いない。筆者はノルベルト・エリアスとミシェル・フーコーの理論を応用し、スポーツの歴史的展開の中に、近代特有の身体の成立とその暴走を見てゆく。基本的にこの分野では門外漢の芸術学者による著書だからこそ、スポーツ史家やスポーツ社会学者よる専門的な研究とはひと味違った、 読み応えのある身体論が展開されている。スポーツ史概論、あるいはスポーツ考察入門としてもよくまとまっている。
ただここでは一点、本書にある重大な誤解を指摘しておきたい。著者は、近代国家における非暴力化と近代スポーツ発生の関係を指摘するノルベルト・エリアスを、以下のように批判する。「(近代国家の安定は)実は国家による暴力の独占に依存していることに、エリアスは気付いていないのである。(P35)」 この批判はこの一文にとどまるものではなく、著者はこの「エリアスの暴力論の限界」を乗り越える形で本書終盤の議論を進めてゆく。
だがこれは、エリアスの著作に少しでも親しんでいる者なら、誰もが目を疑ってしまうような勘違いと言わざるを得ない。なぜならエリアスの主著『文明化の過程』の主旨のひとつは、まさに「近代国家の安定は、国家による暴力の独占に依存する」ということだからである。意地悪な例えを使うなら、著者の多木によるエリアス批判は「実は地球は回っているということに、ガリレオは気付いてなかったのである」というようなものだ。
これは明らかに著者の多木が、エリアスがスポーツについて論じた論文数編のみを参照し、彼の主著には目を通さないで本書を執筆したせいであろう。本書を手に取る諸兄は、この点だけは留意して読んでもらいたいと思う。もちろん、この誤りは本書全体の主旨とはあまり関連せず、よくできた案内書としての本書の価値を大きく損なうことはない。