サーフィン、クリケット、ラグビー、ゴルフ、ベースボール、フットボール、はては相撲まで。。。様々な「スポーツ」を、クレオール、ポストコロニアリズム、ナショナリズム、身体性等のキーワードから考察する。時間・空間・思想領域を軽妙な筆致に乗せつつ自在に横断するエキサイティングな論考集!
スポーツの汀
第1部 クリケット群島
第2部 はじまりとしてのスポーツ(ホームベースへの旅;力人の末裔;フットボール的!)
第3部 国旗とスタジアム(競技場の戦争―ワールドカップ大会1994;毛沢東の夢―広島アジア大会;傷ついた英雄―アトランタオリンピック ほか)
クリケットは押しも押されぬイギリスの「国民的」スポーツである。しかし、世界数多の大英帝国圏における諸地域にとっても最大の熱狂の源泉でもある。このような「国民的スポーツ」の世界規模での拡散は、帝国主義的拡張の拭い去ることの出来ない「記憶」でもあるのだ。
カリブ海のクレオール達は、自らの「起源」を正に「暴力的」に剥奪された存在そのものである。彼らにとってのクリケットとは、自身の起源・出自を巡る巨大な「空白」とともに、コロニアルな「記憶」を有無を言わさず埋め込む「シンボル」だ。
これは、「根」を絶たれ、実存的に「アイデンティティ」の複数性、多重性を強いられた「クオール性」であり、また同時にこれが「アイデンティティ」のもつ虚構性を端的に否定する思想的契機でもある。
また印象的だったのは、フットボールについての論考だ。南米諸国プレイヤーは、華麗かつ遊び心に溢れた攻撃的プレーを特徴とするが、これはフットボールが人々の生活の隅々にまで浸透している空間における象徴的・美学的な在り方を示している。
しかし、これが近年のワールドカップなどの国際試合などの、「擬似国家間戦争」のアリーナの出現により、大きな変容を強いられるようになった。
これが近年盛んに研究されている「勝つ」ための合理的・理論的・戦略的なフットボールの発展だ。相手の一瞬の「スキ」をついて得点を狙うカウンター、この1点を死守するための防御的で緻密なゲーム運びである。
このような「勝つためのテクネー」に雁字搦めにされては、フットボールのもつ原初的な創造的かつ自由な運動性を滅殺してしまうことは言を俟たないのである。このようなフットボールは、もはや「フットボール的(フットボリスティカメンテ!!!)」ではない!
このスポーツにおける「勝つ」ことの論理は、ロジェ・カイヨワが論じたような「遊び」の要素を徹底的に排除する。この現象の一方に「正々堂々」とした「スポーツマンシップ」の称揚、賛美があり、もう一方には「勝つ」ことへ脅迫的圧力の末に発生する「ドーピング」の悲劇があるのだ。
その他にも、多くの刺激的な論考が含まれている。なにより、著者の感性豊かで詩的な文章から形成される世界に引き込まれるし、合間合間の挿絵がまた見てて楽しい。
「スポーツ」とは、近代性またそれが根底に孕む帝国主義的・国民国家的暴力性とともに、近代的合理性の強固な「鋼鉄の檻」を突き崩し、身体本来の躍動的運動を担保するものでもあるという「二面性」を持った営為なのである。
何と、クリケット、ラグビーなど近代的スポーツの多くは、死傷者がでるような過激で危険な「遊戯」として、民衆的「反抗」に起源を持つという。時を経て、体制側へ馴致されることにより、「ジェントルマン」の「スポーツ」として生まれ変わったのだ!(「反抗」としての「スポーツ」!)
スポーツなんて軍隊、学校などの国民国家における諸近代装置の一部分に過ぎない、と端から決め付けていた評者にとって、正に目を開かされる思いがした。今日世界の隅々にまで浸透した「スポーツ」というものを考えるうえで極めて有益な作品である。