ホルバイン。
通常の絵画を見る位置からは、何だかわからない邪魔な物があるだけだが、目を外し振り返ってみたりすると浮き上がって見えるもの。
精神分析とは何かを表す良い寓話である。
日常の遠近法やその消失点をちょっと外した時に見えてくる、その遠近法を成り立たせる視点や他者との関係、死や時間。
我々の意識とは視点を無理やり固定して見えてくるある配置にすぎない。
別な視点、別な配置が無数にある。その視点、他者との関係、その死との関係を精神分析は語るのだ。
精神疾患もその無理な視点の固定から生ずるものだと。
患者はある見たい視点、見たい絵を見ているだけだが、それが病だと。
海に浮かぶ瓶から我々は見られてる。
ホルバインからすれば。視点を無理やり意識の座に固定しなければ当然の話だ。
それはあくまでも二次元に過ぎない。なのに三次元の現実と勘違いする固定した関係にとらわれること。
何とまあ精神分析の実践と同じではないか。
フェティッシュ=物神としての遠近法自体、四次元の現実を無理やり三次元に局所化したものではないのか?
それを求める患者の欲望はフェティッシュではないのか?
精神疾患とは三次元に無理やり消失点作る患者の欲望がもたらしたものではないか。
しかし、そうやってあくまで三次元の立場から四次元を解釈し続けるラカンの欲望もまた、批判され問題化しなければならない。
何故、ラカンだけが精神分析だけが終わりない対話とはいえ、四次元を、この世の現実を語り尽くせると言うのか。
既にそこで語れるとされる現実自体、二次元の絵の前でああだこうだ解釈重ねる精神分析医の欲望ではないのか。
分析医自体が物神にフェティッシュにとらわれてるのではないのか。
ラカンを燃やし尽くし爆砕する場所を、私たちは見いださねばならない。
ラカンを知るために何より重要な著作。