20代前半とおぼしき白人青年が二人。アメリカ中西部の荒野をひたすら歩く、歩く、そして歩く。食料も水も地図も持たない二人は、やがて衰弱して一歩も動けなくなる。そもそも二人は何を目的に歩いていたのか。どこへ向かって歩いていくのか。
大変不思議なつくりの映画です。台詞もほとんどないまま二人がひたすら歩き続けるという場面が延々と続きます。しかも1カット1カットの長さが、ハリウッドのアップテンポな映画を見慣れた目には常軌を逸したかのように冗長です。見方によっては退屈きわまりないほど変化に乏しいショットの連続に、見る側の緊張の糸は容易に寸断されてしまうことでしょう。
そもそもこの二人は二人ともジェリーという名前なのかどうかも分かりません。確かに二人はお互いをジェリーと呼び合っていますが、同時にこの二人の間では「ジェリー」という単語が「失敗」「間違い」を意味する符号として繰り返し使われているのです。つまり二人は互いを「間違い野郎」と静かに罵倒し続けているとも取れます。
さらに二人が交わすわずかな会話は、テレビのクイズ番組やコンピュータ・ゲームの話題(アフレックが語り続けるギリシア時代の話題がそれ)ばかりです。20世紀文明が生み出したバーチャル世界に浸って生きてきた若者二人が、文明から切り離された荒れ野を彷徨し続ける。その落差に戸惑う様子が二人のわずかな台詞の奥に嗅ぎ取れます。
とはいえ、これは私が言うような文明論を描いた映画なのかどうか、正解は永遠にわかりません。二人のジェリーは一人の人物の中に存在する別の人格で、その分裂と統一を意味する映画であるかもしれません。
いずれにしろ、これは受動的に意味を与えられることを待つ映画ではありません。深読みのそしりを恐れることなく、能動的に意味を読み取ることを、いや、もっと踏み込んで見る側こそが意味を付与することを求められる作品であると思います。