それは3年前の初夏に起こった。
偶然、師に紹介されて、シューマンの「ソナタ第1番」のCDを聴いてしまった。この曲の数少ない録音の中で、私が選んだのは、New York出身のピアニスト、Murray Perahiaによる録音。
驚愕した。
この曲に対して感じた激しい興奮にも似た思いは、これまで取り組んできた曲から浮気しそうなくらいの強い衝動であり、その日は一晩中これを聴き続けた。そして、音楽論評に慣れていない僕が、まるで何かにとりつかれたかのように、この曲の感想を一気に拙文にしたため、これをメールで師に送った。
しかしこの曲は、残念ながらあまり弾かれる機会がない。第一に、全曲を通して長すぎるという単純な理由が挙げられる。内容的に豊か過ぎるからである。この曲の独創性は、常軌を逸した霊感と瑞々しい即興性に満ち溢れている点にあるが、本来意識下に押しやられるべき愛の表現が、作為的に過度に追求されてしまっていて、聴き手にこれが透け透けなのである。それは時として、この曲のソナタとしての形式を大きく逸脱させてしまい、弾き手を不安にさせる。弾き手は時に、この曲に共鳴し、自らを憑依させ、まるで手綱の利かない競走馬のように、暴走させてしまう危険性をはらんでいる。
さらに、この曲は作曲技法という視点から冷静に客観視すると、どこかアンバランスな「歪み」が見て取れる。まるでこの作品のアラ探しをしているようだが、均整のとれた美貌の女性に惹かれるとは限らないのと同様、この作品がどのように「アンバランス」であっても魅惑的なのである。理性を超越し、噴出しほとばしり出る熱気に翻弄されるが如き書法こそが、聴き手と弾き手の心を捉えるのだと思う。
渡米を前にしてこの曲に取り組んでいた私は、叶わぬ恋にもがいている自己を投影させるための、絶好の媒体にしていたと思う。そして、この曲の不完全さと、自己の内面的未熟さとをオーバーラップさせていた。
テンポは全体に速めであり、ショーマン独特の深い内面の移ろいを色濃く反映した演奏ではないという意見もきかれるかもしれない。上述の危険ラインをぎりぎり超えるか超えないかという瀬戸際の演奏であり、聴き手にスリリングな緊張感を与える。しかし、ペライアの演奏には、スピード感あふれる中にも知的な抑制が効いている。