私は、先日放送されたNHK教育テレビ「N響アワー」の「シューマン生誕200年特集」に奥泉光がゲスト出演していた際に、話題の小説として紹介されて初めてこの作品を知ったのだが、クラシック・ファンであるとともにミステリ・ファンでもある私としては、買わないわけにはいかないと思い、早速、注文して、読んでみることにした。
この作品は、「指を切断したはずのピアニスト永嶺修人が、なぜ、コンサートでピアノを弾いていたのか?果たして、彼の指は、本当に再生したのか?」というミステリアスな謎が、冒頭でいきなり提示されるという、魅力的な出だしから始まる。
ところが、その後の前半は、ミステリはどこかに置いて、かなり専門性の高い、完全なクラシック小説の趣きを呈してしまっているのだ。特に、頻繁に、何度も繰り返されるシューマン論や「ピアノ協奏曲」を始めとした精緻な楽曲分析などのうんちくの数々は、私のような一般のクラシック・ファンからしてみれば、CDのライナーノーツを読めば十分なのであり、少々、うんざりさせられたことは、告白せねばならない。
しかし、女子高生殺害事件が起きる中盤以降からは、ミステリ小説らしくなってきて、ミステリ・ファンも面白く読めるようになってくるし、この本の売りであるラスト20ページに待ち受ける真相を読むと、この本が正真正銘のミステリ小説であったと納得できるのだ。
ただ、私は、ラスト10ページは余分だったと思う。現代ミステリのトリックは、ほとんどがオリジナルの変形なのだが、特にラスト10ページからのトリックは、使い方を誤ると、「何でもあり」の安直なミステリになりかねない際どさがあるのだ。実際、私は、このトリックを知った後に、改めて全体を読み直してみたのだが、やはり、一言でいって書き過ぎで、かなり無理があり、アンフェアといわれてもしょうがないと思う。ラスト10ページがなくても、ミステリとして、十分、意外性はあったにもかかわらず、どんでん返しにどんでん返しを重ねる欲を張ったがゆえに、かえって、ミステリとしての完成度を落としてしまったのではないだろうか。