会話シーンの面白さを改めて教えてくれる映画でした。
またその点で「好色人生」と「転落人生」の二本が絶妙なアンサンブルを奏でています。
一本目「好色人生」の会話の撮り方は実に「好色的」であります。
と、いうのも女優さんたちの顔が実によく撮れているのです。
女優がキチンと「女優」として扱われている、というべきでしょうか。
ここでの括弧付きの「女優」とは、撮影所時代の女優、という意味です。
原節子や高峰秀子などを撮っていたように、ここでは女優の顔がとても大事にされているのです。
照明も多分、そうなっているはずです。顔に掛かる影にも気が行き届いています。
またカット割りも、バストショットでの切り返しが続いた後に何気なく挿入されるロングショットの
アングルといいタイミングといい、女優の身体を引き立て、映画を引き締めています。
また、夏生さちさんに関しては、セリフまわし等も含め、80年代のアイドル映画(角川映画)を思わせるところがあります。
ここでも被写体(アイドル)の存在を引き立てる演出が細かく施されているのです。
昭和のスター女優の映画とアイドルの映画が、舞台となる平屋の一軒家で共同生活を営んでいるのです。
誠に好色的、であります。
対して「転落人生」の会話は「転落的」です。転げ落ち、逸脱し続けるのです。
この映画は最初、笠木泉演じるシャーリーの妻の「語り」の枠内で描かれているのですが、
彼女の話す何ともとらえどころのない方言とアクセントに誘われるように、物語は当初設定されていた枠内を逸脱し、転落し続けます。
彼女自身の立場・物語内の立ち位置も、同じく回想の語り手という、当初設定されていたものから脱線していくのです。
それを可能にしているのが、一度聞いたら耳からなかなか離れないあの方言と、登場人物たちが感情を露(あらわ)にするときの
独特の言い回しです。
言い回しに関しては、ひとつわかりやすい特徴を挙げるとするなら、アクセントの位置、言葉を止める位置(文章で言う「、」(句点)を打つ
位置)を意識的にズラしているようです。
そのズラし方にどのような法則があるのか(或はないのか)までは私にはわかりませんが(ただ、句点を打つ位置の独特のセンスは
何となく太宰治を思わせるところもあり、その意味でこの映画を監督した富永昌敬さんが太宰治の『パンドラの匣』を映画化したことにも繋がる
ような気もします。が、これはただの妄想に過ぎないかもしれません)。
しかし、誠に「転落的」なのであります。