原書が発売されて20年以上が経過し、やっと『シネマ2*時間イメージ』が翻訳刊行され、遅れること2年で、ドゥルーズの大著『シネマ』の翻訳が完結したことをまずは慶賀したい。
ドゥルーズの映画論を読むため最低限の知識とは、グリフィス、ムルナウ、エイゼンシュテイン、シュトロハイム、ドライヤー、ブレッソン、パゾリーニなどの映画作家たち、さらに小津・溝口・黒澤のフィルムを観ていることが前提となる。なぜなら、『シネマ1*運動イメージ』では、ドゥルーズがとりあげている様々な映画のシークエンスを記憶の回路から引き出しながら読むことが、理解を助けるからだ。
その点ドゥルーズがいうところの「運動イメージ」を、三種類のショットに置換していることが理解の要となるだろう。すなわち「知覚イメージ」が「ロング・ショット」であり、「行動イメージ」とは「フル・ショット」のこと、「感情イメージ」を「クロースアップ」から捉える視点、この斬新さが映画と哲学を架橋する。この三つの「ショット」に「フレーム」と「デクパージュ(カット割)」を組み合わせることで、映画をイメージから読み取るのがドゥルーズの方法論なのである。
とりわけ、黒澤と溝口を分析し高く評価している第11章が圧巻であり、「黒澤の作品は、闘争=二元性と戦いに浸透する息吹によって活気づけられている」とし、溝口を「シークエンス・ショットとトラヴェリングによって絶頂に達する」と評価する記述を読むことで、具体的な映画のシーンを想起させる。
原文から一行の脱落を訳者の瑕疵と決めつける短絡さでは、日本の近代以降の翻訳文化を理解できないことを申し添えておきたい。敢えて繰り返すが、哲学者ジル・ドゥルーズの最大の著書『シネマ』の翻訳が完結したことの意義はきわめて大きい。