著者の取材態度は、一見していい加減。行く前から気になっていたトライアスロンとマラソン以外は、気の向くまま観戦したりしなかったり。開会式は途中で抜け出すし、天候が悪いといっては競技場を後にする。
まじめではない。しかし、怠惰ではない。サッカーを観戦するために、わざわざ片道1000キロを一昼夜かけてドライブする。オリンピック開催期間の地元の新聞から、せっせとゴシップを拾って紹介している。彼は、競技という側面からだけでなく、その周辺を丹念に歩き、輪郭を浮き彫りにすることで、オリンピックというものの全体像をあぶり出したかったのだ。
冒頭に有森裕子が登場する。その次に男子マラソン犬伏孝行の五輪前練習風景の描写が続く。なぜ、有森裕子なのか?彼女は、今回のシドニー五輪に出場しなかった。その彼女の、しかもアトランタ五輪でのマラソンレースを、村上はニュージャーナリズム風に描いて見せた。そのスタートからゴールまでの丸ごとを。さらに、最終章には、有森裕子のニューヨークシティ・マラソンの後のインタビュー。この構成もまた、村上のオリンピックにたいする懐疑的まなざしの表れなのだ。(文月 達)
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もうひとつの序章、犬伏孝行を描いた「広島」も、「アトランタ」ほどじゃないにしても、作家の観察力がよく出ていて読ませる。
しかし、本編のシドニーオリンピックを取材した部分になると、印象がもう一つ散漫になってしまう。『遠い太鼓』とか『雨天炎天』などのいままでの旅行記のように、旅行が終わってから全体を俯瞰した上で書かれたものと、毎日毎日見ては書く、という繰り返しからできあがった本書の違いかもしれない。それとも、この散漫さ、とりとめのなさが、オリンピックであり、また、オーストラリアという国だ、ということであって、それこそが作者が伝えようとしたことなのかもしれない。
ともあれ、オリンピックの間中、マスコミがさんざんあおりたてた情緒過多な報道とは、まったく違った視線がここにはある。聖火リレーで盛り上がる人々を見て、「どうしてこんなに多くの人がただの火のリレーを見るためにわざわざ集まってくるのか、僕には想像がつかない」という感想が出てくるくらいだ。そう、作者が言うように、「結局のところただの火」なのだ。だが、国家主義と商業主義の魔法をたっぷりとかけると、ただの火が「聖火」に変わり、人びとは興奮して集まってくる。それがオリンピック。
優れたアスリートたちが、ぎりぎりのところまで高めた自らの能力を、開放しつくす一瞬の感動もまた、オリンピックにはある。そのことも、きっちり描かれている。だが、その感動はたちまちのうちに「物語」に仕立てられ、消費され尽くされる。キャシー・フリーマンの勝利は、アボリジニーとの「和解」をほんとうに意味するのだろうか? 彼女の作り出した感動はほんものだったにせよ、これもまた、オリンピックをオリンピックたらしめるために作られた幻想だったのではないか、という気がしてならない。夢から覚めたオーストラリアという国家が、アボリジニーというトゲをどのように抜くのか見届けるには、これからまだまだ長い年月が必要だろう。
作者はオリンピックを「巨大なメタファー」と呼んだ。これほどの紙数をつくして、メタファーと実体とのつながりを作者に感じさせたものは何か。そのあたりの脱力感もまた、この作者のうまさなのかもしれない。
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