『シチリアでの会話』(岩波文庫)を読み返す。劈頭の頁を開いただけで、コンレスカルペロッテ、バニャーテ、……コルカ−ポキーノ……エーロインプレーダディアストラットフーローレ……学生の頃、初めて読んだヴィットリーニの言葉が頭の中にがんがん轟く。半年ばかりはあの不思議な小説の虜となって過ごしたのだった、あたしは。院生だった鷲平さんの論文も新鮮な衝撃だった。奇妙な登場人物が次々と登場するこの小説をきちんと訳されている。でもあたしなら、「私」は「ぼく」だし、母と息子の会話にですます調は使えない、理由は分かっても。『ぼくの戦争』(学芸書林『実存と情況』所収)、鷲平さんは読んでくれたかしら?退官記念講義を終えられた恩師を車で送っての途中、司会を務めたKを目白駅で落とし、石神井を抜けて京子さんとお別れした。裡から知性の洩れ出る彼女をそのとき美しいと感じた。車を出て握手した彼女の手のひらが温かかった。武蔵関では、両手にあまる真紅の薔薇の花束を抱えて階段を独り登る恩師の背を想像して、ハンドルを握るあたしはふと眩暈がした。あと一つ、世界の些事を忘れていたよ。あの日、あのひととの再会もあった、十九のころの内側から耀きだすような肌の美しさは失われていたけれども。
いまではあの握手の意味がはっきりと分かる。あれはあたしたちの世代から鷲平さんたちの世代への連帯の挨拶だったのだ。えへん、えへん、……、封印された言葉は、むろん、《武器を執れ》だ。傷つけられた世界のために! 正義と自由のために、えへん、えへん、そしてエヘン!
「……しかしぼくの心は投げつけてやりたい雷という雷でいっぱいなのだ」
そう、だからこそあたしの名前はフルミネ雷なのだよ。ちかぢかフォルゴレになるかもね。
錆びた鋏を、錆びたナイフを、そして錆びたペーパーナイフを研ぐだけでいいのだ、そこからすべてが始まる。
もう一冊の書物。『シチリアでの会話』解読は、〈解読〉という名の本書中のもう一冊の書物である。いまははっきりと分かる。この日から、小さくは岩波という極東の一出版社の、日本という島国の、大きくは世界の、新たな歴史が始まったのだ。えへん、えへん、老いも若きも、女も男も、武器を執れ、傷つけられた世界のために、正義と自由のために、えへん、えへん、そしてエヘン!
鷲平京子さんの言葉、
《なおまた「解読」は、その構成も内容も、イタリア内外の研究者の誰彼の見解を踏襲ないし合成したものではなく、私なりの独自の解釈を書き連ねたものであり、錯誤の類はすべて私自身の責任です。》
これは大変潔い言葉だし、覚悟のありどころを示すものだし、勇気が要る。ぼくの来年の座右の銘はこれで決まり。
(ふるみね『雑記掲示板-恋』初出http://zakkikeijibannkoi.blogspot.com/2008/12/blog-post_25.html)
『流離譚‐本と絵と恋と‐』http://ryuritann.blogspot.com/
愛しいひと 蜘蛛の巣の小道 全集・現代世界文学の発見〈第6〉実存と状況 (1970年)愛神の戯れ―牧神劇『アミンタ』 (岩波文庫)