ハイデッガーが珍しくシェリングの『人間的自由の本質』経由でスピノザに言及しているが、許し難い意図的なスピノザの誤読がある。
ハイデガーはシェリングを引用し、スピノザの誤りが「神が諸事物であり」、「一個の事物であるとするところにあるのだ」(p200)とし、存在忘却の典型だとしている。
しかし、シェリングの原書ではその先があり、「一個の事物であるところの無限的な実体の抽象的な概念的把握に、あるのである。」(世界の名著続9、p416)と続くのだ。
シェリングもハイデッガーもスピノザを批判し、それ以上に能動性の契機を見出そうとしているのだが(シェリングは上記書p410でスピノザのいう実体を「A」、個別的実体を「A/a」と記載する等正確に理解しようとしているが)、ハイデガーの方はスピノザを矮小化したうえで「ドイツ観念論」に可能性を無理矢理見出そうとしているように見える(ハイデガーによる「スピノザの排除」とデリダは『
主体の後に誰が来るのか?』で命名している)。
肝心な点は、ハイデガーの存在忘却の指摘が実はスピノザの論理に近いという事だ。
例えば、p116,148に出てくるハイデガー作成の存在-神-論(p155)を解説した図は、
存在者としての
存在 存在者全体
ロゴス
というものだが(本書では左端の「存在」を「存在者」と訳している)、これは山下正男がスピノザを図解した以下の図、
全論理空間
実体 様態
空のクラス
と、上下は逆だが相似である(『論理学史』山下正男p208より。ただしハイデガーの場合はヘーゲルと同じで排中律を取らない)。
つまり、ハイデガーはスピノザを無視する事でその地位を築いたのである。ニーチェですらスピノザを正しく読んでいたのに、、、
索引もあり、訳も読みやすく本書の「存在」自体はたいへん意義があると思う。