この本には、1930年代後半、1940年代後半、そして1950年代後半に書かれた短編小説が収められていますが、日常生活が淡々と描かれていながら、どれもこれも行間から、まるで芥川晩年の小説を思わせるような、不吉で不気味な空気が醸し出されてきます。
本の表題にもなっている「サラサーテの盤」(1948年作)の内容をざっと紹介しますと、地方の学校に赴任した友人に誘われ、主人公は東北に遊びに行きます。その晩、かなり大きな地震が起こります。その後、友人とともに太平洋岸の町まで足を延ばし、その地の料亭で、ひとりの芸者と出会います。友人の妻は、スペイン風邪を患って亡くなってしまい、かの芸者が友人の後妻におさまります。結局、友人も亡くなり、元芸者の未亡人は、友人と前妻との間に生まれた娘のうわ言に突き動かされ、亡き夫の貸与物を返してもらいに、主人公宅を何度も訪ねてきます。主人公は、借りたことを失念していたサラサーテの盤を、未亡人宅に届けに行きます。そして一緒に聞いてみると、録音時に紛れ込んだと思われる演奏者の声が、死者の声とダブって聞こえてきます。以上。
この物語には、地震、スペイン風邪の流行と、人の死が身近にあった、戦争をはさんだ時代の不安が、色濃く反映されているようです。しかし、インフルエンザの流行、東日本大震災、原発事故による放射能汚染と、同じように人の死が身近となった昨今、この不気味さは、極めて今日的とも云えるでしょう。
なお、この「サラサーテの盤」は、1980年、鈴木清順監督によって、「ツィゴイネルワイゼン」として映画化されました。友人と芸者の馴れ初めと、未亡人の訪問が淡々と描かれているだけなのに、読み進むうちに徐々に恐怖感が増してくる原作とは違い、映画の方は、わざとらしく奇を衒った演出と、出演者の大袈裟な演技で、派手派手しいだけの印象しか残りませんでしたが。