ソロモン航空戦を戦った日本海軍の戦闘機搭乗員、島川正明飛曹長(終戦時)の従軍戦記である。徳島県出身、昭和14年6月、佐世保海兵団へ一般航空兵として入団、大村航空隊を経て、霞ヶ浦空にて53期操縦練習生として錬成に入る。後、筑波空、百里ヶ原空を経て、大分空に配属。大変珍しい三等航空兵の戦闘機搭乗員となった。昭和16年4月、鹿屋の第一航空隊に転勤し中国大陸に進出。9月、新設の台南航空隊へ転属する。
台南空と言えば当時日本海軍最精鋭の戦闘機隊で、エースパイロット坂井三郎一飛曹(当時)が居り、著者も何度かその列機を勤めているが、大変優秀で、安心して作戦行動出来る小隊長だったと回想している。太平洋戦争の開戦は台南空に於いて比島作戦で幕を開けた。緒戦期の戦場は、世に伝えられる様な一方的な勝利とは異なり、中隊長浅井正雄大尉の戦死や、劣勢ながらも果敢に反撃してくる連合軍機に手を焼いた様などが正直に綴られている。その後第六航空隊に転属し、空母『加賀』に便乗しミッドウェー作戦に参加するも、母艦沈没により海面を漂流、燃え盛る空母群を見ながら、戦争の行方に重大な危機感を抱いてしまう。ミッドウェー海戦の戦記は意外と少ないので、漂流中の将兵の様子、駆逐艦「萩風」に救助され、その後空母「赤城」の自沈処分の様子など、細かに記述され興味深い。
そして激戦のソロモン戦線へ進出する。第203航空隊として最前線のブカ、ブインに展開、昭和18年3月まで休暇も与えられずひたすら戦い続けた。その戦闘記録も他に劣らず凄烈なのだが、著者の場合には特徴がある様に思う。連合軍ではパイロットはみな士官だという。ところが著者は日本海軍でも稀な三等兵から搭乗員を勤めた。空中での激務にも拘わらず、地上では兵として扱われ、食事番をし、整備や雑務をし、時には先任搭乗員として上官を従えて小隊長を勤める事があるにも関わらず(それだけ技量に差があった)、鉄拳制裁を加えられた。兵食も宿舎も粗末で、休養も満足になく、士官搭乗員との待遇は大きく開き、同僚は次々と戦死する状況下で、実力だけで生き抜いて行った著者は、少なからず旧軍への恨みと、実力第一の鉄の信念を鍛え上げていった。いわば反骨のプライドを以て、昭和18年3月に悪性マラリアで後送されるまで、ソロモンの空を戦い続けた。本書の空戦記録は此処で突然終わる。内地帰還後は大村空、徳島空で錬成部隊の教官を勤め、171空、343空401飛行隊にも所属していたが、記述が無い所を見ると、特別に空戦を行わなかった様である。
巻末の坂井三郎との戦後の対談の中で「(松山の343空で再会した際)そのときにはすでに、私の三番機どころではなくてベテラン中のベテランになっていて…」と評される程、大戦末期には最古参の古強者になっていたが、何処か不遇な儘で軍歴を終えている。一つには余りにも剛直で融通の利かない性格が災いしたようで、例えばソロモン以来の飛行隊長である小福田皓文少佐を『率直にいって、小福田大尉は、私にとってはきわめてにが手な人であった。』とはっきり述べているし、進級試験の答案に『戦時下の戦闘機乗りは、進級など問題でない。敵機を一機でも多く落とせばよい』とだけ書いて提出したりと、シニカルな一面も覗かせ、他に例が無く面白い。その上歴戦の猛者であったが故に、上官からは煙たがられたのではないかと想像する(その小福田皓文著『指揮官空戦記―ある零戦隊長のリポート』では、あれだけ連日戦闘飛行に従事したにも拘わらず、島川飛曹長の名前は出て来ない)。
それ故本書に於ける著者の目は冷徹そのもので、日々傾く敗勢をはっきり感じとり、気負いもなく、無心に飛び続けた在りし日の儘を記述している。日本軍の強さは下士官兵の強さそのものであった事を改めて印象づける、歴戦の体験記である。
特に印象的な箇所を二点。ソロモン航空戦で搭乗員の大きな負担となった長距離攻撃の困難さを表現して言った言葉。『零戦乗りとは、片道五百カイリ以上の攻撃に参加した経験のある者にしてはじめて言えるのではあるまいか?』。
打ち続く搭乗員の消耗に、低下して行く練度と戦力について。『古参パイロットでありながら、内地からの転勤者は戦死が早い。戦場に馴れないせいなのだろうか。このような古参パイロットが、若手より先に戦死していったのは、戦況悪化にともない、つねに古参パイロットに大きく比重がかかったからであろう。零戦の補給がきわめて困難な状況下にあっては、搭乗員はもちろんのこと、機体も大切にしなくてはならない。そいういうときに未熟な若手を出したのでは、空戦により相手を撃墜できないばかりか、人も機体も、ムダな消耗となりかねない。その結果として、古いパイロット優先の起用となったのである。だいたい、このような米軍との戦闘がもっともはげしい第一線で、訓練を要するパイロットを投入すること自体がおかしいのである。』