この本は読む人によって評価が分かれるだろう。
要は、読者がこの本を読んで何を考えるかということである。登山は趣味の世界であり、登山が対象とする自然そのものにルールがあるわけではない。ルールはあくまで人間の社会的な意識の産物である。フリークライミングにおいて、クライミングシューズという人工物を使用することをフェアーではないと考える人は素足で登るだろう。クライミングにロープ、カラビナ、カム類を使うことを潔よしとしない人はフリーソロになる。フェアーという意味では、すべてグラウンドアップで、オンサイト、ナチュラルプロテクションを使用した初期のヨセミテでのクライミングがフェアーだが、それでもロープという人工物を使用していた。かつて、冬山登山でアイゼンを使用することがフェアーかどうかが相当議論された時代もある。クライミングシューズやアイゼンの使用が「フェアーかどうか」は、所詮、相対的、社会的、文化的な問題である。
植村直己が極地での冒険でテントや犬ぞりを使用したことが「フエアーかどうか」が問題になるのは、その冒険が社会的な行為だからである。現在では登山やクライミングは商業化され、フェアーかどうかは社会な価値観に規定される。フェアーかどうかは、それを必要とする社会的な行為について要求されるのであって、地球上に自分1人しかいなければ、フェアーかどうかは問題にならない。山に籠ったソローが、社会との関わりがなく、誰にも知られない行為であれば、それが「フェアーかどうか」は意味をなさない。「フェアー」という概念は、社会的な行為に関して優劣の価値判断を行うときに問題になるのであって、自己完結型の行為には必要ない。
本書で扱う登山はできるだけ人工的なものを排除しているが、それでも、完全に人工物と無縁ではない。このような登山についてフェアーかどうかという判断をすることに、それほど意味があるとは思えない。むしろ、「人間と自然の関係」に重要な意味があり、それを志向する点でこの種の登山の意義があるというべきだろう。人間の自然性は、老子、ルソー、ソローなどの思想の系譜に連なるが、これは登山に限った問題ではない。デンマークやドイツの「森の学校」や「生の学校」などがこの思想の系譜に属する。「フェアーかどうか」という観点からではなく、人間と自然のかかわり方というという観点から、できるだけ人工的なものを排除する形態の登山が意味を持つ。カナダなどには、最低限の緊急避難的な設備以外の人工物を排除したトレッキングルートがある。そこでは沢に橋がなく、時々、渡渉に失敗したトレッカーが死ぬが、すべて自己責任である。日本でも、道、橋、階段、山小屋などの人工物を排除し、あるがままの自然状態の登山ルートが、もっと重視されてよい。