超寡作な伝説の覆面作家トレヴェニアン。’79年発表のトレヴェニアン名義の第4長編『シブミ』は、独特の日本文化論を取り入れ、フリーランスで“孤高の暗殺者”ニコライ・ヘルを描いた“冒険スパイ小説の金字塔”と謳われる名作だった。
本書は彼(後に元テキサス大学学部長で本名ロドニイ・ウィリアム・ウィテカーと判明する)が’05年12月14日に逝去した後を継いで’11年に上梓された『シブミ』の前日譚である。書いたのは、アメリカ・ニューヨーク出身、現在サンディエゴ近郊に在住のドン・ウィンズロウ。そう、<探偵ニール・ケアリー>シリーズや、09年「このミステリーがすごい!」海外編で話題作『ミレニアム』をおさえて断トツ第1位に輝いた『犬の力』で有名なハードボイルド作家である。
トレヴェニアンの『シブミ』では詳しい叙述のない、日本の敗戦後、ヘルが米占領軍に捕らえられ巣鴨拘置所の独房に収監されてから再び現れるまでの期間の物語である。彼は1951年秋、釈放と新しい国籍・身分、そして自分を拷問したダイアモンド少佐に対する復讐を条件に、CIA局員からきわめて困難を伴い成功・生還の見込みのごく薄い、北京駐在のソ連KGBの要人暗殺工作を引き受ける。
東西冷戦、毛沢東の共産中国、朝鮮戦争、抗争を繰り返すインドシナ情勢、当時の均衡危うい世界情勢を背景に、アメリカという大国のエゴの手先となるヘル。
ストーリーは、きわめて短い章立てで、ヘルを取り巻く各国あるいは各軍・各勢力のボスの思惑と、それに加えてヘルに対する私怨も加わり、ヘルを中心に映画のカットバックのような手法で矢継ぎ早に展開する。さらに26才の青年らしい恋愛やギャンブルのシーンや、謎の暗殺者<コブラ>の存在も取り込まれ、次々に趣向の異なる見せ場が現れる。あまりのテンポの良さと錯綜する各勢力の混沌とする状況に誰(何)が“敵”で誰(何)が“味方”か見失いそうだ。
本書は、元もとのじっくりと味わい読む『シブミ』のような重みはないものの、ウィンズロウ流の息もつかせぬ映像的なスピード感溢れる冒険活劇に仕上がっている。