題名の「ゴーレム」に惹かれて購入した自分ですが、
心から「購入してよかったな」と思える一冊でした。
生命倫理について、色々と考えさせられます。
特に、「対象が言葉を話すか話さないか」で我われの感情がひどく動く点
細胞実験などで、「途上の生命体」を実験的に量産しているが、
「生命」の線引きはいかにして取扱うべきか?
今後、科学の進歩は一層進むでしょうが、「倫理観」についても
一緒に築かなければ、人間とゴーレムの境界はますます稀薄になって
いかざるを得ないでしょう…。
■第一部:ゴーレムの伝説
・第一章:伝説の歴史的点描
『創造の書』の中で、土から造られるゴーレムはユダヤ人の<知識修得>を確認するための儀式であり、ゴーレム自体を使って何かをしようとは考えておらず、また、ゴーレムは人間より力強いが、人間 より鈍重で、話すことができず、人間を破滅させるほどの能力を備えていない描写がなされている。
・第二章:人間化するゴーレム
『ニフラオート・マハラル』で描かれるゴーレムの姿は、どこか間が抜けた<馬鹿者>であり、また簡 単に殺されはしないものの、不死身ではなく、また、ユダヤ人が安全になると、その役目を終えて土にかえる描写がなされている。ゴーレムが暴走を起こしうる存在である様子が描かれており、一つの危険 性が示唆されている点興味深い。
■第二部:〈怪物〉と自動人形
・第一章:境界線上の〈怪物〉
<怪物>とは、前提知識の境界線上=知ると知らないの狭間に存在している「何か」であり、ゴーレム も<怪物>の範疇に入るだろう。ゴーレムは、<人間と超人の狭間>というよりは、<人間と亜人間の狭間>にいる、友達のような怪物、性能の鈍いロボットのようなイメージを持っている。
・第二章:機会仕掛けの恋人
『砂男』にでてくる女性オリンピアは、言葉を話せないが完璧な動作を行うことができる「自動人形」であり、男に使い得る女ゴーレムの姿=<生物学的なゴーレム像>を垣間見ることができる。
オーウェルの『動物農場』で、ロッスム技師は有能で社会に貢献し、人間に余暇を与える「人間未満の力を備えた作業機械」を造る。そこに人間の労働に使いう売るゴーレムの姿=<工学的なゴーレム像> を垣間見ることができる。
■第三部:ゴーレムよ、土の帰れ
・第一章:未定形の肉塊
様々な生物学・医学研究が進んでいるが、その研究の過程で生み出されるのは「途上的な生命」であり、一つの<ゴーレム>とも考えられよう。現代の生命観では、このゴーレムを<処理>しても<屠殺>とはみなしていない。もしも、「途上的な生命」に<食用性>が認められ、大量生産体制が整えば、 私たちはそれを躊躇いもなく食すかもしれない。
・第二章:亜人の命乞い
私たちは、対象が言葉を放った途端、その内部には繊細な感情があるのではないかという思いを抱く。だが、言葉を持たない対象が感情を持たない保証はどこにあろうか?逆もまたしかりである。私たち個々人が考える<人間圏の境界>は、当人が置かれた状況によって動く。言葉を巧に操れず、時に逸脱した行動をする他人を<ゴーレム>ととらえていないか?周囲の人と比較し、知識不足で人見知りな自分を<ゴーレム>と見てはいないだろうか?<ゴーレム>の存在は、私たちに「人間とは」「命とは」何かについて考えさせてくれる。