本書を読み進むにつれ、自分自身の俗物性が恥ずかしくなる。結木家は俗世の象徴の様な存在だった。歴史的にも大勢の社会的弱者の犠牲の上に成り立っている富と名声だ。ネパール人妻淑子の奇行により結木家のそれらが崩壊するのを輝和は止める事は出来たはずだ。しかしそれをしなかったのは、輝和自身も望んでいたからかも知れない。そして、本当に結木家が崩壊した後に輝和が得たものは絶望ではなく安堵だと思う。
しかしその後の展開は興味深い。無からの再出発だったが、淑子を中心に人の和が形成され、経済生活が自然に生まれた。しかも、そこそこの利益が出て潤うに至った。ここに人間の生の力強さと再生力を見る。それまでの淑子の神憑り的な奇行は崩壊と再生をもたらせた。この一連の淑子の行動の意味は釈然としないが、結果としてそういう事になる。そして淑子が失踪した事は彼女自身の役割を終えたという意味なのか?
そして輝和が淑子を追いかけて訪れたネパールの表の顔と裏の顔の落差の大きさには驚く。しかしネパールの山岳地帯の人々の生命力は殊の外強い。著者は日本的な物質文明を物差しにしてはならないと釘を刺す。
「神の座」と呼ばれる山を仰ぐ地で生まれた淑子の一連の行動は、もしかすると定められた事だったのかも知れない。ただし聖地は存在しなかった。