コミュニティにより人は安全(感)を得る、それは物理的にも心理的にも。ただし、コミュニティを成立させるために人は自由を差し出さなければならない。その安全と自由のバランスをどこでとることが可能かということを思想史を通観することで考える材料を本著は与えている。
近代というものが自由を極大化すべく、コミュニティを次々と解体した結果世は資本主義が覆った。しかも、権力はパノプティコン型(介入する=保護する)から、撤退する権力(人ではなく事物で管理する)へと変質しつつあり、誰がコミュニティの代替システム(セーフティーネット)を提供するのかという部分で空洞が広がりつつある。
かといってコミュニティを再建できるかという点で、ゲーテッドコミュニティとゲットーという裏表の関係にある例をあげているがそこで見て取れる姿は決して希望ではない。もしかしたら自由(欲望)をある程度制限するという思考錯誤の中には「安全」への欲望をもある程度制限するということが含まれているのかもしれないとそんなことを考えさせられる。
当著では明確な答えは与えられていないが、それでも多文化主義が単に「貧困」問題を看過するだけの知的怠惰のようなものだと舌鋒鋭く批判を展開するなど迫力ある論考が展開されている。