グールドは、そのレコード演奏ばかりではなく「グールド論」ともいうべき評論でも大いに私たち音楽ファンを楽しませてくれる。
そのエキセントリックな演奏と変人奇人ぶりをめぐって幾多の論考が重ねられてきた。何をいまさら、という疑念を払拭して、この新たな「グールド論」はとても面白い。
青柳いづみこは、ドビュッシーなどフランスものを得意とする現役のピアニストであり、その一方で軽妙洒脱な文章が持ち味の音楽評論家でありエッセイストでもある。その音楽論は「実演家」として、指先や運指などの奏法や演奏家の体格や心理など徹底的にフィジカル面を追求し、高邁で観念的な形而上学的音楽論に対して一石を投じてきた。
ここでも、グールドの初期教育のメソッドや身体的・心理的資質、内在する後期ロマン派への傾倒、レコーディング現場、音楽産業の思惑などなどがとりあげられていて、いつもながら大いに刺激的だ。しかし、本書に新たな評論としての価値をもたらしたのは、そうしたフィジカルなアプローチだけではない。新たに発掘・整備された録音や映像のアーカイブの存在だ。著者は、この資料を徹底的に洗い直している。
圧巻なのは、ブラームスの《協奏曲第一番》の演奏分析。
奇妙奇天烈なピアニストという伝説を作ったバーンスタインとのカーネギーホールでの共演。指揮者が、演奏に先だって異例のスピーチを行って『奇抜な解釈』との印象を決定づけた。
著者は、この前後のグールド自身の実演や発言などにも言及しながら、彼の解釈が、当時、どのように異色で反伝統的だったかを証した上で、『巨大な交響的協奏曲に有機的なまとまりをつけようという彼の主張にはじゅうぶん耳を傾けるべきものがあり、このできごとを期にスコアをもう一度見直したピアニストも少なくなかった』と主張する。
1972年にギレリスがオイゲン・ヨッフム指揮ベルリン・フィルと収録したブラームスの一番は、様々な点でグールドが示したテンポ設定やソロとオーケストラとのバランスの取り方が踏襲されているという。『同じようなアプローチでも、グールドがやってみせると異端になり、ギレリスが弾くとこの協奏曲の決定的な名盤と言われるのは、どうしてだろうか。』という。二十一世紀の今、固定観念なしにこのふたつの演奏を虚心に聴き比べればまったくその通りだと思うに違いない。
興味深いエピソードが満載で、これまでの「グールド論」同様にまったく飽きさせることがないが、そうした表面的、あるいはディテールの面白さだけではない。グールドが実践的に示そうとした問題提起の、先見性、深さ、拡がりをあらためて示した本著の価値は大きい。
青柳いづみこの、音楽評論としての集大成といってもよいほどの好著。