動物を入り口にした、比較的ライトな読書紹介エッセイかなと思って読み出しましたが、どうしてどうして、著者の幼児期からの読書人生に深く踏み込んだ渾身の言葉で、みずみずしい感性と同時に、現代に氾濫するファンタジーの源流や輪郭をとらえようとしている手つきに血がかよっていて、じつにスリリングでした。
子どものときにひっかかった描写、変だからこそ心に残る神話というもの、そのあたりから話が始まる「馬」や「猪」。このあたりは著者の国文学的素養と海外の神話が結びついて、そこまで読み込むか、とわくわくしました。猪に殺されるギリシア神話のアドニスと、古事記のオオナムチ(オオクニヌシ)。エピソードを比較するだけでなく、猪がいかに猪突猛進で、ほんとうにこういう殺され方になってしまうのだ、という古来からの事実をも参照している、迫真的な論考です。
また枕草子と源氏物語の猫の描写を比較し、美青年一条天皇の少しおちゃめな性格と、猫をふところに入れて猫かわいがりする柏木の相補性を唱えたところも、小説のように面白いものでした。
創作とリンクさせて語っている点でも、あちこちにきらりと光る洞察があり、たとえばカエルの項。カエルのミニチュアを使って、弟といっしょに、うちや家具を造った経験から「ファンタジーが地平を広げるためには、自分の外部の何か(この場合は弟と体験の共有)とアクセスしていることも重要。(空想がクリエイティブなものになるかどうかは)たいそう微妙なものながらそこに分かれ目がある」。また、「スズメ」の項では、最初に記憶している絵本がその人の人生コースになる、という友人の示唆から、ふしぎな絵柄だった「したきりすずめ」を語ったり。
全体を通じて、ふたつの大きな柱があります。
ひとつは、子どものときの読書の奇妙な感触、また児童書をちゃんとその年齢のときに読むことの意義(『ゲド戦記』を大人になって読んだ苦い思い出もあります)、そしてもうひとつは著者自身の創作ともからめて、ファンタジーには何が必要かを問うているところです。
ファンタジーはなぜ中世的世界をとりあげるのか? またファンタジーは「(空想であっても生き生きと動き出してくるものは、)物語世界の風土や歴史にあらかじめリンクするかぎを持っていないとならない」「ファンタジーは非人間的な要素を本質的な要素としてふくむ(ル・グウィンを引用して)」「優れた〈動物物語〉はファンタジーであり、ずっと輝いているファンタジーとシャボン玉じみた空想話とのちがいは、神話や昔話の生い立ちと地下水脈で結びついているかどうかなのだ」などの発言からは「レッドデータガール」にいたる著者の作品の底流を見てとることができます(ところどころ「一筋縄では語れない」などちょっと不思議な言葉遣いもあって楽しい)。
ここにとりあげられた『ナルニア』『ライラの冒険』『ウォーターシップダウン』などの定番ファンタジー作品に、著者独自の角度が入っていることも読み応えがあり、ファンタジーにこだわらない読書家にも大きな刺激を与えてくれる本です。例えばわたし個人は、『ウォーターシップダウン』のウサギ・ハイファンタジーがどうもしっくり来なかったのですが、アダムズの育った風土や先行の昔話や物語の蓄積の上に、この世界のリアリティがある、という解き明かしには、なるほどと腑に落ちるものがありました。
前著『ファンタジーのDNA』よりもぐんと進化した世界で、エッセイを越えた論考としても輝いています。