小説に2種類あるとします。大事を小さく書く小説と、小事を大きく書く小説。本書は前者です。父と二人の娘を残し片岡家の母が突然家出、20年も帰って来ないのです。なのにこのサバサバとした書きっぷりは何なのでしょう。呆気にとられながら読むうち、著者は確信犯だと気づきます。言いたいことが明確にあって敢えてそうしているのです。
残された家族。初めは驚き戸惑います。しかしその反応も自己中心的で、それぞれの勝手な解釈で処理されていきます。一体この母どうして家出を?と彼女の10年分の生活を描く章を読んでみれば、「何でこの人こんなに悩んでないの?」とこれまた呆然。旅芸人一座について行き、なりゆきで旅館のおかみをやり、なりゆきで左官屋のベビーシッターを・・・その間の家族との交信は、貯金とたまの電話。「家に帰るのは、疲れてからでいい。家はそのためにあるのだから」
母に限らず、片岡家は生理的に動く人の集まりのようです。セックス第一主義の姉。上昇志向と支配欲で邁進する妹。「文鎮」とあだ名される父が一見堅実な人を思わせますが、たまたま規律に則った生活が大好きなだけ。この人も生理に従って生きる人です。そして20年後、母が帰ってきて前日の続きのようにそこにいるのです。姉は思うのでした。「どこにいようと、この人は積子(姉)の母で、積子はこの人の娘だ。そして、それぞれの方法で生きているのだ。それだけのことだ」 それこそ生理的に、家族とて「生きていくのは、一人だもの」とわかっている片岡家であり、それが著者の語りたいことなのだと思います。
彼らを見習えば、瑣末事から解放されすっきりきっぱりと生きることができるかも? でも小心者がいきなり真似をすると怪我しそうですから、慎重に少しずつ試してみます。解説は山田詠美さんです。