私は本書を単行本で、約25年前に買った。しかし、読んだ記憶はない。とくに専門的な知識が必要な本ではないのに、これを読むために必要な背景知識すら、当時の私にはなかった。
<br />本書は回想記としての体裁であるが、おそらく事実は、グスタフ・マーラーの妻であったアルマが書いた、グスタフ一家を主人公とする優れた小説、なのであろう(単行本にはこれに、どれほど脚色したか不明な書簡集がついている)。妻が日記を元に書いた回想記だから一級資料である、というおめでたい考え方には、私は賛同できない。たとえこれが一級資料には違いないとしても、それは本書の内容が他著の引用ではない、という定義上の理由に尽きる。
<br />私は、アルマのような女性が、事実をいかに一瞬のうちに自分の都合のいいように歪曲して解釈するか、あるいは、自己弁護のためならいかに易々と嘘を並べるか、よく知っている。しかも、本人にそうした意識はまったくないから、事情を知らぬ他者には、これらは事実として堂々と通っていく。つまり、日記に事実が記載されている保証はまったくないし、まして後年に日記と記憶とを参照しながら書かれた本書が、さらに大幅な脚色を経ている可能性は、限りなく大きいと思えるのである。
<br />しかし、本書を事実に基づいた創作として読むなら、これは大変興味深い作品である。文章力も大したものであり、訳文もこなれていて読みやすい。記録ではなく、文学(一種の私小説)としての価値は高いと考える。