コウ、東らが率いる青秀学園の甲子園への道のりも残すところあと5試合。それは、かの「若葉の見た夢」を正夢にするまでの道のりでもある。
しかしその途上、ある人物が病に倒れる。本人は気丈に振る舞うものの、それを知ってしまった青秀ナインの間にも、少なからずの動揺が生まれて…。
かつて漫画評論家の大塚英志は、手塚治虫以降の日本のマンガの歴史を、傷つくことのない記号でしかないキャラの歴史として厳しく断罪した。キャラクターでは死は描けない。読む者にそれと感じさせる死を描かなければならないと、彼は言う。
だが必ずしもそうなのだろうか。死はそれを直接かつ激しくグロテスクに描かなければ、死として受け止められない。少なくとも、あだち充作品を読んでいたら、そうとも言えないような気がする。
なぜならこの『クロスゲーム』ではそのある人物の病が、「死の予感」として周囲の友人たちに波紋のように広がっていく。そして彼らはそれによって、少なからぬ動揺をもよおされるのだ。そのことを、ある者は率直に心配し、ある者はその心配していない(治るに決まっている)を装いたいがために空元気を振り絞る。だがどちらにしろ、その人の「死の予感」を、皆が危惧するという形で死は確実にここに描かれているのだ。
死は実際にキャラクターを「殺害」しなくても、このように「死の予感」と、そしてそれの現実化におびえる周囲の登場人物を通して、読者に届くのではないか。
そういったことを想起させられた第15巻。