「わたし」は汽車の旅の途中、ある老人に出会う。乗り合わせた客たちの
間で結婚について議論が紛糾する中、その打ちぶれた老人は、きわめて
否定的な結婚観を披露する。一段落してその老人は、なぜそういう思想に
至ったのか、彼の半生を彩る恐るべきある事実とともに、「わたし」に向け
て語り始めた…。
ベートーヴェンの曲名を名に持つ本作と、タイトルがその名も「悪魔」という
二編の中編を収録の本書。解説によればこの両作品が収録されたのには
意味があり、それはこの両作品に共通する、当時作者であるトルストイ自身
を悩み苦しませていた性愛の問題である。本作を収録した別訳の文庫も近
年出版されているようだが、そういう意味でこの組み合わせで読む方がいい
のかもしれない。
トルストイはこの両作品の中で、恋愛も結婚もセックスも浮気までも、男女
の営みをけっして明るいものとしては描かない。それは男を惑わせ、悩ませ、
時に死に至らしめる恐ろしい病なのだ。
男にとって女とは何者なのか。「彼女ら」は実体的な存在であるだけではな
く、隙あらば彼ら男の脳内で増殖し始める観念という名の“病”なのだ。相手
が今何をして何を考え、自分をどう思っているのかというのに思いを巡らすの
は、恋慕の常だ。それは一見、甘美な経験のように聞こえるが、当事者にとっ
ては苦痛以外の何ものでもない。なぜなら、それは自分の思うようにならな
い相手への憎悪と、相手を思うようにできない自分の不能への絶望を自覚
する経験に他ならないのだから。
この物語の最後、ミソなのは結局最終的に“事実”が本当のところどうだった
のかは誰にもわからないということだ。哀れな男は虚妄の末に妻を欲望し、
憎悪し、決断を下してしまう。
日本においても殺人のうち近親間でのそれが多分を占めているというのは
周知の話。赤の他人と一緒になり家族を築くというのは平和的な営みであ
るとともに、時に「戦争」にさえ一変する。そう、まさに「戦争と平和」。