著者は批評家として以前から日本における純文学の閉鎖性を批判し、SFや推理小説、ライトノベルなどのいわゆる通俗小説の新しさを擁護して、文芸誌を根城とする純文学は多様な方向に開かれ異種混合すべきであると主張してきました。
本作はそのような彼が考える現代の小説のありうべき姿を、何とか一つの作品として結実させようとする意欲を十分に感じることのできる一冊となっています。
ただ、SFに疎い私には本作のSF的設定や筋立てがどれほどのものか分かりかねますが、純文学としての評価となると、稚拙な比喩表現や情景描写、童貞の妄想っぽい性描写、過去のトラウマで話の背景を立てる使い古された手法など、決して褒められたものではありません。
したがって、文芸誌的な小説観を前提とすればとても読めた代物じゃないのですが、「越境的」な「ハイブリッド」な小説としては一つの試みとして評価できると思います。
ところで、そのような批評家としての著者の言い訳に付き合うような読み方を止め、一冊の物語として本作を読んでみるとどうでしょうか。
一言でいえば、つまんないです。
このつまらなさは先に述べたような純文学としての稚拙さに起因するのかというと、それは違います。そこは苦笑を生むだけ楽しめるところです。
この何の感興もわかない読書体験は、ひとえに著者がキャラクターというものを生きた人間として描けないことに尽きます。
著者は、アニメやマンガ、ライトノベル、エロゲームを愛好しときには批評することでよく知られています。そして、これらのオタク的なジャンルはキャラクターの存在というのが作品に対し実に大きな要素を占めているのは周知のことでしょう。
したがって、著者の書く小説もまたキャラクターの存在が大きいものになるだろうという予想があったわけですが、実際に読んでみると、あたかも棒人間のアニメをみているようなキャラクターの薄っぺらさを目の当たりにし驚くばかりです。
これはつまり東浩紀という人の本質が、実のところアニメやラノベなどよりもはるかに思想や純文学サイドに存在する、そういうタイプの人間であるということではないでしょうか。
この点に関して、真逆に位置するのが村上春樹だと思います。
本作にはその村上春樹と彼の作品が、焦燥感と羨望の入り交じったような妙な雰囲気で登場するのですが、そのときだけは往人というキャラクターが生きています。