《国名》シリーズにおけるエラリーの推理とは、あくまで証拠に基づいた
緻密な論証を展開することによって、犯人を指摘する、というものです。
しかし、そうしたエラリーの思考を逆手にとった犯人が、
意図的に偽の証拠を残した場合は、どうなるのか?
探偵は、証拠の真偽を見極めることができるのか?
そして、ただ一人、小説世界の事件の「外部」に位置し、そこから
全てを解き明かすという探偵の特権性は、どうなってしまうのか?
本作は、以上のようなミステリにおける決定不可能性の問題や
探偵への懐疑を、無自覚かつ先駆的に取り上げた作品です。
作中においてエラリーは「犯人は自分に不利益な行為はしない」という原則のもと、
物的証拠を吟味し、取捨選択していきますが、そこには作者の恣意性が抜きがたく
存在しています。
また、エラリーが推理の根拠とする証言に対し、
偽証の可能性を検討していないのも問題でしょう。
証言が証拠能力を有するか否かを判断する場合、事実誤認の可能性や、
人間が虚偽を語りうる存在であることを当然念頭におくべきですが、
本作では、その手続きは無視され、論理的な整合性を保つために、
作者の恣意的な価値判断を導入せざるを得なくなっているのです。
偽の犯人をつくり出すため、意図的に偽の証拠を捏造する真犯人、
という存在が組み込まれた本作は、「手がかり‐推理」という、
ミステリの構造を多重化・メタ化しています。
しかし、作者としてはそうした「実験」を追究しようという意識はなく、
たんに、 名探偵の出発点における失敗譚を示すことで、キャラの
理由付けをしたかっただけなのでしょう。
結末においてのみ推理を開陳するという、名探偵の不自然さを
正当化するために書かれた本作は、図らずも、形式が本質的に
持つ不確定性を暴露してしまったといえます。