本書は、その体裁上、決して系統立てて書かれてはいない。あたかもその時の都合任せの様にして、九州各地のキリシタン遺跡を、著者がその旅仲間と巡る話である。しかしながら、読後には、一見脈絡がないような各章の挿話の集合から、やはり読者は何らかの意味を感じ取らざるを得ないと思う。キリシタン遺跡を巡る旅は、大多数の人から興味を持たれないであろうオタク的な遺物を、ただ探し訪ねて廻るだけのものではない。そこから語り掛けられてくる何かを、各人がどう受け止めるかが、問われているように思われる。
私個人としては、17世紀初頭の日本を離れ、仲間と別れて独り大陸を横断し、ローマでの修練の後、禁教弾圧下の日本に再び帰国、地道な宣教活動の後、やがて殉教したぺトロ岐部という人物の存在を知り、心打たれるものがあった。特に、彼について、「中国からインドを経てアジア大陸を横断し、イスラム世界から西欧世界までつぶさに見聞して、ローマの最高学府で学んだ超国際人」であるとの説明に、『モッキングバードのいる町』において異文化環境における確執を描いた若き日の(失礼!)著者を想起させられるとともに、その人物が敢て、鎖国的な環境の日本に帰国し、信念(信仰)を貫き通す姿には、本当に心から「日本人も捨てたものではない。」と感動させられた。
また、現代社会との関わりから言えば、9/11以降ますます対立が深まっているかのように報道される一神教世界に対し、「我々は八百万の多神教だから寛容である。」かのような意見に昨今頻繁に出会うが、本書でも度々触れられる徹底的なキリシタン弾圧の史実を見るに、本当にそうなのであろうか、と疑念を抱かされる。体制的な価値観に異を唱える者に対して、日本人がどのような態度を取ってきたかは、それから300年経った昭和10年代を見ても明らかである。日本は決してPluralismの享受者・守護者などではないことが、見て取れる。
一見単なる石ころにしか見えない物について、それが本当に単なる石ころなのか、それとも我々に人生観や歴史観を問いかけてくる遺跡なのか、全てはそれを見る者にかかっている。本書の価値も、そのキリシタン遺跡に似ているのかも知れない。